静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

今月の聖書の言葉

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≪今月の福音書≫   ルカによる福音書 15:11〜
             「兄、弟」
                   牧師 司祭 シモン 長野 睦

 今年の大斎節も半ばを迎えました。主イエス・キリストの荒野での40日間の断食と試練に習い、また、主の御復活を迎えるために、私たちも大斎の修養に励んでまいりたいと思います。
今月の福音書は大斎節第4主日に選ばれている「放蕩息子のたとえ」です。ある教会でこの箇所を学んだとき、「あなたは兄の立場と弟の立場のどちらに共感しますか」と問いかけたことがあります。三分の二の方が「弟」に手を上げられました。確かにわたしたちはこのたとえ話を何度も読み、聴いています。この話は主イエス様によって神の無限の愛がたとえられており、神は常に悔い改めるものを赦し、迎え入れてくださる。だから罪人である私たちはまさしく「弟」なのだと。聖書をよく読んでいる信仰者の模範解答です。
 しかし考えてみると、私たち信仰者が弟の立場に共感を持つのはそんなに自明のことなのでしょうか。私たちは神に対して大きな罪を犯し、悔い改め、涙ながらに神のもとに立ち帰っているでしょうか。あるいはその経験を持っているでしょうか。私たちの多くは、むしろこの兄のような「まじめな」生活を日々心がけており、努めているのではないでしょうか。家庭でも教会でも、社会でも。
このたとえは主イエス様の話を聞こうとして近寄ってきた徴税人や罪人の様子を見たファリサイ派や律法学者の不平に対して、失われたものが回復される喜びを説く一連のたとえ話の最後のものです。もし私たちが(少なくとも私が)「兄」の立場に共感を持つとしたらこのファリサイ派の人びとと共通のものを持っているということでしょう。
改めてこの話を読み返してみると、この父親は兄を否定してはいない。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。兄が否定されるのはファリサイ派や律法学者と同じ「不平」についてです。そして私たちも、神の恵みの中に安住する中から出てくる「不平」があるのではないでしょうか。このたとえの中心は、父親=神の喜びです。私たちもこの喜びに共に召されており、そこに共感するように求められているといえます。大斎節は、この神の喜びに共感し、実感するときでもあります。

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(※次回は4月4日頃、更新予定です。)