≪今月の福音書≫ 聖マルコによる福音書10:17〜(特定23)
永遠の命を得るために
牧師 司祭 シモン 長野 睦
この福音書の物語は三つの福音書にともに出ている話です。ただ、マタイは「青年」といい、ルカは「役人」と記していますが、マルコは「ある人」とだけ記しています。主イエス様の前にあっては年齢や職業など決定的な問題ではないことを悟ります。むしろわたしたちの関心を呼ぶのはこの人への描写です。「走りよってひざまづいて尋ねる」この表現の中に主イエス様に道を尋ねるこの人の熱意と謙遜さを読み取れるのではないでしょうか。一刻も早く質問に答えてもらいたいという思いで息せき切って駆けつけ、主イエス様への尊敬の念とどうしても教えてもらいたいという思いが表れています。しかしそれにもかかわらず、この対話は何かずれを感じます。「善い先生」という呼びかけからしてそうですし、質問の内容も大きな誤解があるようです。
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」、「何をすれば」と尋ねている。彼は人間の善い行いによって永遠の命を獲得できると考えていたのです。「永遠の命」は神様からの賜物です。人間の努力によって得られるものではありません。彼は主イエス様を律法の教師として考え、何をしたら永遠の命を受けられるのかを教えていただきたいと願ったのです。主イエス様はモーセの十戒を示しました。しかしそれは皆子供の頃から守っているという。彼の生活は自他共に認める律法に忠実な生活を送っていたのでしょう。そこに彼の自信があります。さらにそれを確実に保障するために何を加えたらよいかということだったのでしょう。
主イエス様は「慈しんで」言われたとあります。彼の善良さ、まじめさを認めながらもその方向の違いを指摘されました。「まじめさ」が逆に妨げになる場合もあります。そして主イエス様は彼に欠けているものを指摘されました。
わたしたちにも捨てきれないものが一つや二つはあります。財産かもしれないし、地位や名誉や家柄であるかもしれません。私たちもこの聖書の箇所を振り返りながら自分の執着しているものを考えたいと思います。
※次回更新は、11月15日(木)頃の予定
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