静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

今月の聖書

≪今月の福音書≫ ルカによる福音書 18:9~ 特定25福音書
  ファリサイ派の人と徴税人の祈り
               牧師 司祭 シモン 長野 睦

 私たちは毎日祈りの日々を過ごしておりますが、今回の箇所はファリサイ派の人と徴税人の祈りの対比が主イエス様によってたとえで教えられます。この前の箇所では熱心に祈り求めることの大切さが教えられていましたが、この箇所では祈りの姿勢、内容が教えられています。
 二人の人が祈るために神殿に上ります。ファリサイ派の人々にとって祈るために神殿に上がることはごく日常的な事柄であったでしょう。熱心な人は一日に七回も上がるといわれています。彼らにとってその熱心さが信仰を自分にも他の人々にも認めさせる証明となっていたわけです。片や徴税人は神殿に上がるということはめったになかったことでしょう。
 神に祈るという共通の行為を通して、この二人は全く隔たった生き方、信仰があらわされているということができます。ファリサイ派の人は感謝をもって祈っています。徴税人は神を見つめる行為もできず胸を打ちながら深い懺悔と反省の言葉しかできませんでした。しかしファリサイ派の人の祈りは「神様、私はあれこれのことをしたことを感謝しますと、自分の行った美点を並べ立てるだけでそれが神様から与えられた恵みであることに気付いていない。しかも隣にいる徴税人との対比の中で自分を位置づけています。相手との比較の中で自分を高めることによって相手を貶めています。これはもはや神の前での祈りではなく自慢であり、自己満足です。ですからこのファリサ派の人の祈りは神の前で義と認められなかったのです。
 考えて見ますと、私たち自身の祈りがこのファリサイ派の人の祈りのようではないと確信を持って断言できるか不安です。ここに陥りやすい祈りの落とし穴があるのではないでしょうか。私たちが幸せであればあるほど、順調な人生であればあるほど陥りやすいところです。私たちはこのイエス様のたとえの御言葉を通して、改めて私たちの祈りを、生き方を振り返ってみたいと思います。


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