≪今月の福音書≫ マタイによる福音書 5:21以下 顕現後第6主日
律法学者たちに勝った義
牧師 司祭 シモン 長野 睦
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)
ともすると私たちは主イエス様の教えを旧約聖書の律法と反対の場に置いてしまいます。つまり旧約聖書の律法は人間の心情を無視した規則一点張りのもの。そして主イエス様の教えはそれとは全く反対に神の愛によって覆われているもの、と思いがちです。しかし主イエス様は決して律法に反対したり、無視したりなさったのではないということが分かります。しかもそれを認めるということだけではなく成就、完成するのだとあります。そしてキリストの弟子たるものは、学者やファリサイ派の義―宗教的正しさ―に勝っていなければ決して天の国に入ることができないといわれるのです。
学者、ファリサイ派の人々は律法を教える律法の専門家でした。彼らはその一点一画も文字とおり守ろうとしある程度はそうしていたのでしょう。厳しいユダヤ教の宗教的伝統が続けられていたのは彼らの役割が非常に大きかったといえます。主イエス様は当時の普通のユダヤ人ではついていけなかった彼らの教え以上にならなければ天の国に入れないと厳しい要求をなさったのでしょうか。
福音書で明らかなように、主イエス様の戒めは行いの問題だけでなく私たちの心の思いについても戒めておられます。ここにある「殺人の禁止」ということについてもただ人を殺すという行為にとどまらず、怒るという私たちの心の思いが、すでに殺人と同じ線上にあり、軽蔑すること、ののしることも同じ線上にあると戒められます。
私たちはとてもそれを完全に守ることはできません。私たちは神様の戒めを完全に守ることができないことを知らされます。そこから神様に対する懺悔の心が生まれます。「学者たちに勝った義」とはこのことではないでしょうか。