≪今月の福音書≫ マルコによる福音書9:38以下(特定21)
名前の持つ力
牧師 司祭 シモン 長野 睦
9月に入りました。今年の夏はとりわけ暑かった印象があります。まだ残暑が続いていますが、思いを新たにして歩んでいきたいと思います。
9月に入りますといろいろな秋の行事が始まります。敬老のお祝いがあり、バザーの準備も始まります。その一つ一つの行事に神様の祝福を祈りながら進めてまいりましょう。
今月選びました聖書は主イエス様と弟子たちとの対話が記されていました。名前の持つ力という発想は興味深いものがあります。主イエス様の名前を使って悪霊を追い出しているというのですから、ある種の魔術師のような存在と考えられていたのかもしれません。主イエス様は聖ヨハネの言葉に対して「弟子ではないという理由だけで拒否されるべきではない」と教えられます。主イエス様は人間によって権威づけられたもの以外の人々を通しても、神がお働きになることを知っておられたのでしょう。神のみ旨を行うものはそれが見知らぬものであったとしても神の同労者であるとお考えになったのです。
名前の持つ力という発想は古代のいろいろな面で見いだされますが、確かに興味深いものがあります。ただ私たちはこれを科学、文化の発達していなかった時代の遺物だと笑い飛ばすことはできません。考えてみますと同じような発想は現代でも多く見いだされるのに気づきます。なにか自分の主張を通すとき、あるいは相手を説き伏せるとき、よく知られている権威者の名前を持ち出すことは私たちもよくしていることではないでしょうか。これも一種の名前の魔術と言えなくはありません。さらには例えば「法の名のもとに」相手の不正を正します。あるいは「正義の名のもとに」相手をさばきます。これもやはり名前や言葉の持つ力といえるでしょう。
弟子たちは主イエス様の名前を用いることのできるのは自分たち弟子の特権であると思っていたのでしょう。私たちも主イエス様の名前や友人、知人の名前を自分勝手な目的のために用いないように注意したいものです。
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