静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

聖書の言葉

≪今月の福音書≫  ルカによる福音書18:9~14(特定25)
ファリサイ派と徴税人    牧師 司祭 シモン 長野 睦
 聖書にファリサイ派と徴税人のたとえがよく出てまいります。すべてのファリサイ派の人々がこうであったとかすべての徴税人がこうであったとは言えないと思いますが、その対比によって主イエス様の教えようとされることが明確になるためによく用いられているのでしょう。
 これは二人の違いを通して祈りの本質を教えているものといえます。この徴税人の謙虚さは私たちの祈りにも欠くことのできないものです。人間は幼い日から死に至るまで、こうありたい、ああなってほしいと願い、祈ります。それは具体的言葉として祈りの言葉ではなくとも、私たちの願いや希望や求めは常に祈りの中にあります。
 この二人の祈りを改めてみてまいりましょう。ファリサイ派の人は感謝とともに自らの行為を並べ立てます。しかし徴税人は神の前で誇るべきことを並べ立てることは何一つできませんでした。かれは「罪びとの私を憐れんでください」という祈りしかできなかったのです。
 この二人の祈りを見て私たちの毎日の祈りはどちらの側の祈りでしょうか。確かに私たちも細かなことを別にすれば奪い取る者でも、不正な者でも、姦通を犯す者でもありません。そして何よりも祈りは神への感謝が第一であることを教えられ、その通りの祈りをしているものです。そうすると私たちの祈りも神から義とされない、神から認められない祈りなのでしょうか。けれども、このファリサイ派の人の祈りはわたしたちの祈りと何か違う、どこか違うという違和感を持ちます。
 繰り返しこのたとえを読んでいくうちに二つのことに気づきます。一つはこの人の祈りの内容です。この人の感謝は、神様からしていただいたことを感謝していません。そうではなくあれこれと自分の功績をあげて感謝しているのです。そしてもう一つはファリサイ派の人の視点、まなざしです。彼は神との関係よりもこの徴税人との比較の中で自分を高めています。相手との比較の中で自分を高め、相手を貶めています。これはもはや神への祈りではなく、自慢であり自己満足です。私たちも陥りやすいことかもしれません。この主イエス様のたとえを通して、改めて私たちの祈りを振り返りたいと思います。
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