静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

下げ振り

牧師 司祭 エドワード 宇津山 武志  

主はわたしに言われた。「アモスよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「下げ振りです。」主は言われた。「見よ、わたしは わが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない。(アモス書7:8)
聖霊降臨後第8主日(特定10)の旧約聖書より)
皆さんは「下げ振り」というものをご存知ですか? 聖職の道を志す前、わたしは住宅設備機器のメーカーで七年間お世話になりました。最初の二年ほどは営業で、建築現場にもちょくちょく足を運びました。製品がきちんと収まるように、取り付け工事の前に欠かせない「墨出し」という作業をするためで、そのときに活躍するのが「下げ振り」です。タコ糸に先端の尖った金属製の錘(おもり)を結んだもので、正確無比に垂直を示します。写真は古代エジプトの建築家の墓からの出土品で、中央に三角定規と組み合わされているのがわかります。なるほど、これなら水平や45度の振り分けなどもできますね。およそ4千5百年の時を隔てて、今もその形はほとんど変わっていません。
主はアモスに言われました。「わたしは、わが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。」アモスエルサレムの南の小さな町テコアで「家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者」(7:14)でした。神さまはこの農夫に、み心を離れて歩む民と指導者へのメッセージを託しました。預言者の使命とは、神のみ心からの乖離を示し、悔い改めと改心を促す。立ち返れば赦しと救いが、聞き従わなければ裁きと滅びが下される。それを告げ知らせることでした。下げ振りが彼らの真ん中に下されることにより、彼らの“ずれ”や“歪み”、“的外れ”つまり罪が露わにされる、突きつけられるのです。
当時の平面的な世界観から時代は下り、今わたしたちは、丸い地球の上にへばりついて生きていることを知っています。下げ振りは、この地上のどこにいても、“地球の中心”というただ一点を指し示します。ここにわたしたちは、信仰生活への大きなヒントを見いだすことができます。
下げ振りを用いずに建てた建物は、真っ直ぐのように見えても真っ直ぐでなく、例えどんなに美しくても、バランスを欠き、外からの不意な力に耐えることができずに崩れてしまう。余談ですが、正確無比というのは困ったもので、大工さんの上手下手、丁寧か雑かが一目瞭然となってしまいます。わたしたちの建てる家ははたしてちゃんと真っ直ぐに、下げ振りに沿って建てられているでしょうか?
また、こうも。価値観が多様化し、複雑化した現代社会において、「解決はこの道だ」と聞く。確かにそうかもしれないと思う。しかし「いや、こちらだ」と別の人が言う。それもそうかと思う。下げ振りがなければ、目先の利益や欲、政治的・思想的な意図に引きずられて、気づくとみ心からは随分と離れた所に向かっていた。
他にも、さまざまな黙想ができるでしょう。下げ振りなる主イエスさまは、ただ神の国という一点を指し示されます。周りの景色に錯覚して「本当にそっちですか?」と疑ってしまうこともあるかもしれません。でも、イエスさまは決して嘘はおつきになりません。嵐の日には風に煽られて下げ振りが揺れ、どっちへ向かっていいかわからない日もあるでしょう。でも、下げ振りは必ず再び神の国を指してピタリと止まります。下げ振りに結ばれた糸は、わたしたちと神さま、イエスさまを繋ぐ絆です。だから決して手を離してはいけません。手を離さないこと。それが祈りであり、聖書であり、礼拝であり、聖奠に与ることです。ともに神の国を目指して歩み続けましょう。そして、下げ振りを持っていない人を見かけたら、さあ、「これを持って」と差し出すことができますように。
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