静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL・FAX 054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

今月の聖書

わたしの助けはどこから来るのか
聖霊降臨後第16主日の説教ノートから〜

牧師 司祭 エドワード 宇津山 武志
「われ山に向かいて目をあげん
わが助けはいずこよりきたるべきぞ」

小海線清里駅で降り、清泉寮に向かって長い坂を登り始めると、石でできた大きな門柱に迎えられます。これはその門柱に刻まれた聖句、詩編第121編1節のみ言葉です(1959年版祈祷書訳)。現行の祈祷書では次のように訳しています。
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ わたしの助けはどこから来るのか」
わたしたちの救いはどのような営み、どのようなありようの中に生起するでしょうか。もう一歩進めると、救いは「神の来る」にあるのか、「わたしの行く」にあるのか。このように言ってしまうと、どちらかが正しく、どちらかが誤っているように思われそうですが、正解はその両方の中にあると思います。でも、今日は「来る」に注目してみたいと思います。
この日の聖書日課です。
「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』」(イザヤ書35:4)
「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」(ヤコブ1:17)
「イエスティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」(マルコ7:31)
見えない人の目が開く。聞こえない人の耳が開く。歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧き出で、荒れ地に川が流れ、熱した砂地は湖となり、乾いた地も水の湧くところとなる。そこには祝福が、恵みが、救いが生じます。閉ざされていたものが開かれる、離れ離れにされていたものが一つに結び合わされる。それが「来る」ことによって成就するのです。
良きクリスチャンであろうとするあまり、わたしたちは知らず知らずのうちに「行く」こと、あるいは「する」ことに重きを置いてはしないでしょうか。わたし自身を振り返っても、こうしましょう、ああしましょう、行きましょう…という言葉を使うことが多いように思います。
わたしたちは今、世界屈指の経済力、高度に発達した科学の力、技術の力、医学の力、処理に困るほどの情報の力を手にしています。それらが組み合わさって、限りあるこの世と時間の中で、目で見、手で触れることのできる実に麗しい果実を生み出します。わたしたちに大きな救いを提供するのです。このゆえに、わたしたちは永遠のなかで無力であることを忘れてしまいます。だから宗教は必要ない。宗教自身の領域でも、行くこと・することによってなんとかなるような錯覚に陥ってしまうのです。わたしたちの救いはどこから来るのでしょう。詩編の歌い手は答えます。

「わが助けは主よりきたる
主は天地を造りたまえり」
詩編121:2)

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