静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

今月の聖書

二の次
牧師 司祭 エドワード 宇津山 武志

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタイ22:38)
この問いにイエスさまは、全身全霊をもって神を愛し、隣人を愛することだとお答えになりました。この問答が交わされたのはご受難を目前にしたエルサレム、問いを発したのは律法の専門家、すなわち、本当に知りたいという思いからではなく、なんとかしてあの忌々しい男を陥れてやろう、試してやろうという意図をもってなされたものでした。
そうした文脈を少し離れ、今日はこの問いに集中してみたいと思います。戒め、掟といえばすぐに十戒が思い浮かびますが、当時律法は、具体的な行動を規定する細則まで含めると優に600を超えていたそうです。神のご意志に忠実に生きようと心がけていた真面目な人なら、「この中でどれが一番大切なんだろう」と、その根幹にあるものを知りたいと、ふと考え込むのは自然なことのように思います。わたしたちも日常生活の中で、さまざまな課題に囲まれて生きています。宿題そっちのけで遊びに夢中になろうものなら「優先順位をつけなさい」と、子どもの頃から聞かされてきましたから常識のように染み込んでいます。学校や会社といった組織の中で、あるいは家庭生活、個人としての生活を営んでいく上で、また一日や一週間といった短いサイクルから、五年十年・生涯といった長いサイクルで、目標を定め優先順位をつけて臨んでいくのはとても大切なことです。イエスさまの時代、神の祝福、天の幸いという目的のために、律法は大切な道具であり、その正しい用い方をわきまえることは、宗教指導者にとって必要不可欠なことでした。そしてそれ自体、なんら間違ってもいないでしょう。しかし彼らは人との関わりにまでそれを持ち込んでしまいました。一番大事なのは自分の救い、次に自分の救いのために一生懸命律法に沿った生活をしようとする人々、たとえ職業的な制約であれ、律法を守らずに生活する人々は二の次、病を負った人、障害に苦しむ人などは、罪が招いたものですからさらにその次、「地の民」として遠ざけておかなければならない存在でした。こうお聞きになったら、「なんてひどい!」と思われるでしょうが、もともと“よい(と信じていた)目的”のために始まったことですので、厄介です。イエスさまはそこに切り込んでいかれました。神さまにとって“二の次”なんてないんだということです。「地の民」を弟子に召し出し、食事をともにし、病や障害に苦しむ人に歩み寄り、膝をかがめて手を差し伸べて癒されたのです。
神さまのため、イエスさまのため、教会・教区のためと、一生懸命なわたしたちは細心の注意を払わなければなりません。知らず識らずのうちに、“よい”ことのなかで、わたしたちはイエスさまが大切になさったものを二の次にしてしまいます。それはわたしたちが聖書を読まないからでしょうか、ちゃんとお祈りをしないからでしょうか?そうではありません。ユダヤ教の宗教指導者たちは人一倍聖書を学び祈っていた人々です。悪魔は巧妙に甘くて美味しい果実をわたしたちの目の前に差し出します。それを頬張るわたしたちを見て、悪魔はニヤリと笑うのです。
悪魔に地団駄踏ませてやりたいと思うのですが、どうしたものでしょう…。救いの歴史の中で、神様は時に一人のカリスマ的指導者を召し出して大きな働きをなさいますが、多くの場合、聖パウロがコリントの信徒に宛てた手紙の中で「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と記しているように、共同体を通じて小さなともしびを一つ二つと灯していくのが精一杯です。でもそれこそがわたしたちの務め。「愚かと誤り、偏りと高ぶりを除き」(諸祈祷「教区会、総会のため」)、謙虚に聞き合うところに「神の声」はようやく届くのだと思います。
この原稿を書いていて、一つのことが頭に浮かびました。それは律法とわたしたち人類とは瓜二つなのではないかということです。神さまの救いの道具であることを使命としつつ、その目的を離れ、裁きの道具となってしまうこと。悪魔の喜ぶ顔ではなく、イエスさまの喜ぶ顔を願い求め、一緒に歩んでまいりましょう。

静岡聖ペテロ教会HPへ
facebook twitter