静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

巻頭言

荒れ野の旅
司祭 エドワード 宇津山 武志

荒れ野の旅と聞くと、きっと困難・苦難・試練などを思い浮かべることでしょう。大斎節の「40日」という期間の根拠となっているのは、イスラエルの民の放浪の40年であり、イエスさまが悪魔の試みに遭われた40日、その舞台はいずれも荒れ野です。楽しい時間でなかったであろうことは誰の目にも明らかでしょう。聖書的な文脈を離れても、ユダヤパレスチナ地方の荒れ野は過酷な場所です。季節にもよりますが、昼は照りつける太陽で40度を超え、夜は20度を下回ります。たまに聖地巡礼で訪ねるわたしたちにとっては“ワンダーランド”ですが、この地で暮らす人々にとっては、来る日も来る日も眼に映るのは土の茶色と空の青色ばかり、そこで暮らせと言われたら嫌になってしまうかもしれません。経済面でも、水が少なく、土壌は塩分を含むところが多く、農業経営には高い技術と設備投資が必要です。この過酷な荒れ野を、紅海を超え、約束の地へと旅したイスラエルの民にはさらなる困難が待ち受けました。旅の途上、彼らはこれらの地で生活する人々に遭遇します。彼らにとってイスラエルの民は侵入者です。貴重な水を取られてしまう。なんとか暮らせる環境に整えた場所を横取りされてしまう。イスラエルの民はその道すがら、繰り返し繰り返しこうした軋轢に遭遇するのです。さらに、彼らはしばしば内輪もめをする。「もう、やってられるか!」モーセは何度「キレた」ことでしょう。
こうしてみると、荒れ野って大変そう・・・。ただ、わたしたちの信仰の生涯はこの荒れ野の旅によく似ています。実に象徴的に。イスラエルの民は紅海を渡って、さしあたり生きていくためのものはなんでもあったエジプトを脱出しました。水の中を通ったら普通は死んでしまいますが、神が開いてくださった道を通って約束の地への旅を始めます。わたしたちも同様に、洗礼によって神の国への旅を始めました。今は頭に三度水をかけていただくことがほとんどですが、水の中にザブンと浸されることを大切にしている教派もあります。水の中を通っても死なないで、いや、古き我に死に、新しき我を生きる、世の奴隷から神の僕へと生まれ変わって生きる人生の旅を始めるのです。この旅の途中で、わたしたちはおおよそ味わいたくはない様々な事柄に遭遇もするでしょう。途中で投げ出したくなることも、元いたところに戻りたくなることもあるでしょう。本当に色々ありましたが、イスラエルの民はついに約束の地へとたどり着きました。ネヘミヤ記に興味深い一節を見出します。
「四十年間、あなたが支えられたので、彼らは荒れ野にあっても不足することなく、着物は朽ち果てず、足もはれることがなかった。」(9:21)
彼らが直面する困難の最中にあって、神さまの怒りを、罰を感じ取っている中にあって、究極的な意味において神さまは彼らを見捨てられたのではない、滅ぼしてしまえと諦めたのではない。ずーっと守り通されたのでした。なぜか。それは神さまがそう約束なさったからです。荒れ野という場所は、実は神さまの存在を、神さまの守りを深く体験するための教へと鍛錬の場、恵みと祝福を体験できる場所なのです。イエスさまはわたしたちに「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。神さまは昔も今も、約束を違えることはありません。喜びと希望をもってこの旅を歩んでまいりましょう。


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