静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ巻頭言

み心を探ね、歩み続けよう

司祭 エドワード 宇津山 武志
わたしたちはイエスさまのみ言葉を四つの福音書を通して聴きます。そこからわたしたちは、まさに直接「琴線に触れる」ようなみ言葉との出会いも経験しますし、反対になんだかとても難しくて、意味するところが分からず、一生懸命に頭で考えて理解し、ようやく「腑に落ちる」といった経験もします。説教者はこの難しさをなんとか解きほぐして、聴く人のこころに、いのち、細胞の隅々にまで染み込んで、その人のうちにみ言葉が生き始めるように努めるのですが、簡単なことではありません。

これは先日婦人会でご紹介した風刺画です。左右に描かれた二つの教会。一方の説教題は「神さまがおっしゃったこと」、もう一方は「あなたが聞きたいこと」とありますが、聞きたいことが聞ける教会は人でごった返し、神のみ言葉が語られる教会には誰もいないという皮肉です。人間のこのような傾向は今に始まったことではありません。聖書には、主イエスさまの宣教の初めには「おびただしい群衆」が集まったのに、人々の期待と違うことが徐々に明らかになるにつれ一人減り二人減り、ついに「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」とつぶやいて…弟子たちの多くが離
れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」とあります(ヨハネ6:60-70)。聖パウロも同様の経験をしています。アテネの人々は興味本位にパウロの言葉に耳を傾けますが、話が死者の復活にいたるや「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と、聞く耳を持たなくなりました。
では、今神さまは何を語ろうとしておられるのか。今このとき、何が神さまのみ言葉であり、み心であるのか。聖書には一方で「父と母とを敬え」と命じられ、一方で「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:26)と言われます。また例えば、「神は愛である」という言葉から、ある人は神さまの愛を傷つけるのを許すまじと武器を取る決断をし、別の人は武器を捨てて和解の道を進む決断をする。神さまのご意思を見極めるのは並大抵ではありません。わたしたちが聞きたいこと、聞いて心地良いことが、神さまのお気持ちとは限らないのです。集い、語り合い、祈り合うことを通じて、わたしの思いが焼き尽くされ、全く気づくことのなかったみ心に気づかされることがあるかもしれません。機会的に割り振られた聖書日課を読み続けることによって、詩編の中に、聖餐の養いによって、あるべき答えを見えなくしていた覆いが一枚一枚取り払われるかもしれません。
わたしたちは、み心を探ね求める旅人なのです。

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