静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ巻頭言

降臨節によせて
司祭 エドワード 宇津山 武志
「救いの道を備えるために、神は預言者たちを遣わされた」
「わたしたちがその言葉を心に留めるとき、贖い主イエス・キリストの来臨を、喜びをもって迎えることができる」
降臨節第2主日の特祷から)

降臨節の日々の歩みの中で、真っ先に思い浮かぶ預言者と言えばイザヤでしょうか。イザヤは、救い主の来臨によって成し遂げられる世界の姿をこう示しています。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」
今日、イザヤの示す世界は、まさに「そんなバカな」と、誰もが思う世界です。「おとぎ話や絵本の世界ではないか」、「こんなのあり得ない…」と、現実の世界との乖離、そこで日々繰り返される悲劇を前に、そうつぶやくほかない…。しかし、これは神がその声に耳を傾けよと仰せになった預言者の口から語られた言葉、「神の約束」です。

旧約時代から、神がお示しになるのは世界と歴史には「始まり」と「終わり」があるということです。始まりとは、神と人とが親しい交わりのうちに歩んでいたエデンの園、すべてのものは極めてよかった、と神がおっしゃった完全な調和のうちにある世界です。これも現実の世界という視点から見たら、あり得ない世界と片付けられてしまうものなのかもしれません。しかし、聖書の語るこの「始まり」との対比のうちに、「終わり」もまた、すべての敵意が滅ぼされ、すべてのものが調和のうちに生きる世界、イザヤの示す世界です。はじめの調和は人間の背きによって崩されました。人間の背きによって、罪によって、世界はあるべき姿を失ってしまったのです。もう一度原初の調和へと向かうために、神はその大能によって―あのノアの洪水のときのように―すべてを滅ぼしつくして新たな創造をしようとはなさいません。神ご自身の形に作り、ご自身と交わるための言葉と智恵とを授けた人間、知恵にも力にも限りある人間をそのための器として用いようと決心されたのです。神が創られたこの世界の中で、終わりの調和へと向かって、人間は神の協力者として生きることが求められています。

歴史の中で、この地上で繰り返される悲劇は、人が神の深い愛を忘れ、あるいは人の思いを神の思いにすりかえて起こしてしまう、神の名のもとに神のみ思いとまったくかけ離れたところへと向かう人間の罪によって起こされるものです。だからこそわたしたちはこのように祈らなければなりません。「…あなたは悔い改めを宣べ、救いの道を備えるため、預言者たちを遣わされました。その警告を心に留め、罪を捨てる恵みをわたしたちに与え、贖い主イエス・キリストの来臨を、喜びをもって迎えることができますように…」

キリストの到来に先立つ最後の預言者、洗礼者ヨハネの使命は、「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」することでした。キリストの再臨に向かう時代を歩むわたしたちの使命もまた、「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」すること。そのためにこそ、わたしたちは聖霊の七つの賜物を封印されました。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。エッサイの根より生い出でたる若枝、イエスの上に留まった同じ霊の賜物です。

降臨・再臨への備えのときと言われるこの期節、わたしたちのなすべきは、普段のあわただしい生活の中で鈍麻している、この霊の賜物への感性をもう一度新たにすることといえるかもしれません。床に就く前のわずかな時間、“忙しい季節”だからこそ、一日の終わりの短い黙想のときをいつにもまして大切に過ごしてまいりましょう。思い煩い、心配ごと、不平不満ばかりがあふれ出てくるかもしれません。でも、自分の心の中の思いを神さまにお話いたしましょう。そして一方的にしゃべるばかりでなく、神が救いの歴史の中でしてくださったことに思いを向け、それに対する人の応答に目を向け、聖書をとおして語られる神の声に耳を傾けましょう。イエス・キリストの来臨を、喜びをもって待ち望む者に変えられますように。
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