静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ1月号巻頭言

まことの光
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」
司祭 エドワード 宇津山 武志

「まこと」という言葉を国語辞典で引くと、「相手のために尽くそうとする真情(偽りのない本当の気持ち)以外に、不純なものが全く含まれていないこと」とありました。ベツレヘムの小さな馬小屋から始まるキリスト・イエスのご生涯に思いを馳せるとき、まさにそのすべての日々が「相手」すなわち「わたしたち人類のために尽くそうとする真情以外に、不順なものがまったく含まれていない」ものであったと感じることができます。
しかし、日常生活に目を転ずると、「まことの光」を見出し、その光によって生きていこうとするのは容易なことではありません。わたしたちは夜も昼のように明るい“人工的な”光の洪水ともいえる中で生活しています。美しく輝く光を作り出すことに成功した人間は、精神的にも、二千年前のむかしにベツレヘムの馬小屋で輝きだした小さくか弱い「まことの光」を凌駕してしまったかのような錯覚に陥ります。「神を必要としない世界」の到来です。まだ未達成の部分はあるけれど、人類の知恵は、それまで「神の領域」として一線を引かれた部分にまで手を伸ばし、解決策を見出してきました。しかしながら、どれほど人が技術の粋を結集し、徹底した品質管理の下、寸分たがわぬ性能を発揮する幾千もの精密機器を製造することができても、唯一無二なる一人の人間を作り出すことはできません。近い将来、クローン技術によって、もしかしたら “わたし”のコピーを作り出すことに成功するかもしれない。それでも“わたし”という存在の過してきた時間、出会ってきた人々、それらの記憶といったものまでも“再生”することは不可能です。“わたし”を通して交わされた笑顔、やんちゃをして叱られたこと、転んですりむいた傷のあと、けんかをして傷つけられたり傷ついたり、一瞬一瞬の積み重ねの先に今の“わたし”があるのであって、ビデオテープのように要らなくなったら上書きしたりできるものでは決してないのです。
何でも作り出し、何でも手に入れることのできるようになった人間は、逆に唯一無二で一回限りの“生”までも粗末に扱うようになってしまいました。
わたしたちはもう一度、この「まことの光」の前にひざまずく謙虚さに戻らなければなりません。あの羊飼いたち、そしてあの博士たちのように。
礼拝にはろうそくが灯されます。ろうそくの明かりは決して明るいとはいえません。わたしたちのちょっとした不注意で、この小さな光は吹き消されてしまいます。外に出たらやっぱり風で消えてしまうことでしょう。イエスさまの降誕によって灯された「まことの光」もこれに似ているところがあるかもしれません。いろいろな誘惑に駆られ、より魅力的な光に心移りして、こんな弱々しいかすかな光のことなど忘れ去ってしまうかもしれません。しかし聖堂に集い、祭壇の前に跪く時、「ごめんなさい、神さま。消してしまいました。」そう告白して赦しを願い祈るとき、主イエスさまは、わたしたちの心にもう一度このともし火を灯してくださいます。
このともし火を心に。それぞれの生活の場所―家庭・職場・学校にイエスさまのともし火の輝きと温もりをお運びする者とされますように。
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