静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

大斎節第三主日説教にかえて

今日の旧約日課出エジプト記(17:1-7)、モーセに導かれてエジプトの奴隷の地から逃れ出たイスラエルの民が、荒れ野で渇き、モーセと言い争った出来事を語っています。出エジプトとは、イスラエルの民にとってのヤハウェ信仰の原点です。神は十戒の授与に際して「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」と自らを示されました。イスラエルの民がやがて約束の地に辿り着くと、神はこう命じました。「あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。『わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。』」(申命記26:5-10)。この革命的な一大事にもかかわらず、彼らは紅海を渡り、エジプトを逃れ出て荒れ野に足を踏み入れた途端、飢えと渇きに不満を募らせるのでした。「こんなはずじゃなかった。ああ、モーセに騙された。あっちにいればよかった…」と。そういう彼らに、神は岩を割いて水を与え、ご自身を改めて示されるのです。
今日の福音(ヨハネ による福音書4:5-26, 39-42)は、この“水”をキーワードとして旧約日課とつながります。イエスさまも弟子たちを伴っての福音宣教の旅の最中、飢えと渇きを覚えられました。そこはシカルというサマリアの町で、ヤコブが民に遺した井戸がありました。水が豊富な日本でも、昔は田んぼへの水の分配をめぐって“水争い”がありましたが、パレスチナではもっと切実でした。時代劇に出てくる井戸のように滑車に桶という風情のあるものとは随分と違います。そんなことをしたら誰かに汲み尽くされてしまいますからね。命にかかわります。だから桶は自分で持っていくのです。旅の途中のイエスさまは桶など持っていません。だから目の前に水があっても汲めない。そこに現れたのがサマリア人の女性です。文字通り、水を“呼び水”として、信仰問答へと発展するのでした。
女性は言います。「あなたがたユダヤ人はエルサレムこそが礼拝すべき場所だとおっしゃいますが、わたしたちは先祖代々この山こそがそうだと信じてきました。」イエスさまの答えは、「あっちとかこっちとかじゃない。霊と真理とをもって礼拝する、それこそが父なる神の求めておられること」だということでした。
あなたがたはこれまで、飲んではまた渇く水を繰り返し繰り返し自分の運んできた桶で汲んできた。でも、わたしが来た今は違う。わたしを通して、決して渇くことのない命の水に辿りつきなさい。桶とは自らの行いや信念やイデオロギーや、それを通して救いに至ると信じている人間のこしらえたものの象徴です。だとすれば、イエスさまがそれを持っておられないのは当然です。そんなものを使っても、命の水にはありつけないのです。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」イエスさまこそ神がわたしたちに与えてくださった“桶”なのです。「主よ、渇くことのないように、またここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」サマリア人の女性とともに、わたしたちもそう祈りましょう。

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