静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

復活日の説教にかえて

わたくしたちは今日、主イエス・キリストの復活を祝う、キリスト教にとって最も大切な日を迎えています。教会はこの日、「さあ、一緒にお祝いしましょう」と、呼びかけます。しかし、わたしたちは今年、「集い祝う」ことを断念せざるを得ず、「教会に集う」ことではなく「家の留まる」ことを呼び掛けなければなりませんでした。
わたくしたちが主日礼拝の公開休止を始めたのは三月一日の「大斎節第一主日」でした。一ヶ月を過ぎた先週、聖週の始まる復活前主日「パームサンデー」には、感染拡大が一定程度に抑えられている地域で礼拝を再開する決定がなされましたが、その後さらなる感染者の増加によって「緊急事態宣言」が出され、今日を迎えました。
キリストのご復活へと備える大斎節は、四十日を数えます。その数字は、直接的には主イエスさまの荒れ野でお受けになった悪魔からの試みの期間に由来しますが、さらに遡りますと、エジプトの奴隷の地から解放されたイスラエルの民の荒れ野における四十年の放浪の旅に至ります。さらにまた、ノアの洪水も四十日四十夜続いた雨によって引き起こされました。こうして聖書において「四十」という数字は試練であったり苦難であったり、人間にとっては当座あまり好ましくない日々を象徴しています。
エスさまは宣教生活のはじめに、こうして荒れ野へと送り出されましたが、わたしたちはこの四十日間、イエスさまの試練を心に思いつつ過ごすに止まらず、礼拝に集うことすら叶わない、まさに荒れ野へ放り出されたような日々を過ごさざるを得ませんでした。わたしたちはこの間、暗いトンネルの中を進むような、一筋の光すら見出すことのできない暗闇に置かれたような、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(マタイ9:36)、そんな寂しさや恐れ、困惑、孤独、そして神への渇きを覚えずにはいられませんでした。
大斎節を締めくくる「聖週」には、そのテーマが、イエスさまがお受けになった「試練」から「苦難」へと移っていきます。ゴルゴタの丘の十字架へと至る最後の日、そこでイエスさまがお受けになった苦しみ、痛み、辱めは筆舌に尽くしがたい壮絶なものでした。十字架の上でイエスさまは叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。イエスさまは十字架の上にたった一人死んでいく。人からも神からも見放されてしまった、そんな「孤独」をお感じななった。
復活日は、十字架が「神から見放された人類の孤独」ではなく、「救いの成就」であることを宣言する日です。しかし実際、復活日の説教にこのようなことを申し上げるのは初めてですが、わたしたちは依然として恐れの中に、孤独の中に、試練の日々の真っ只中にいます。荒れ野がまだまだ続いているのです。安倍首相が先日の記者会見で「日常が失われてしまった」と言われました。そう、「集う」という当たり前の日常が失われ、わたしたちはばらばらに散らされたままです。このような中で、わたしたちは今日どんな喜びのメッセージを見出すことができるだろうかと途方に暮れます。だからこそ、わたしたちは今、この「四十」という数字の指し示すことへと戻らなければなりません。イスラエルの民が荒れ野を彷徨った四十年、その第一歩は紅海を渡ったことに始まります。神がともにいて、守ってくださった、だからこそ彼らは海さえ渡ることができました。迫り来るエジプト軍の追手を逃れることができました。それなのに彼らはすぐに、神の守りを忘れてしまった。飢えと渇きの中で神はいないと考え始める、そしてモーセと争う、「何故こんなところに連れてきたのか」と。しかし、ネヘミヤ記9章にこのように記されています。「まことに憐れみ深いあなたは 彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった。 昼は雲の柱を取り去ることなく行く手を示し 夜は火の柱を取り去ることなく 行く道を照らされた。 あなたの優れた霊を授けて彼らに悟りを与え 口からマナを取り上げることなく 渇けば水を与えられた。 四十年間、あなたが支えられたので 彼らは荒れ野にあっても不足することなく 着物は朽ち果てず、足もはれることがなかった。」(19-21)。イスラエルの民の信仰告白とも言える言葉です。孤独だと思ったけれどそうではなかった、ずっと守られていた、ずっと一緒にいてくださったんだという気づきです。
エスさまは荒れ野で糧を断ち過ごされました。糧とは地の産物に人が手を加えていただくものですが、それは神の業なしにはあり得ません。つまり、食事とは神をいただくこととも言えます。荒れ野で一人、イエスさまは糧を絶たれた、実際に目に見え、手で触れ、口で味わう形でいただく神の業との断絶です。しかし、この間、神の口から出る言葉で悪魔を退け、「天使たちが来て・・・仕えた」とあります。神の言葉をもって生きるわたしたちに神はみ使いを送って守ってくださるのです。
ノア一族と全ての生き物を生かし、洪水後の世界に命を繋いだのは、神がノアに命じて作らせた箱舟でした。
今この時も、わたしたちは決して孤独なのではありません。天の糧は断たれても、み言葉とともに生きるわたしたちに神は天使を送ってくださいます。そして、イエスさまは御父の言葉に聴き続け歩み通され十字架にささげられたその尊いご生涯をもって、箱舟としてわたしたちを天のみ国へと伴ってくださいます。
わたしたちは今日、今までになく強く心に深くこのことを思い起こすことのできる復活日を迎えました。だから喜びましょう、だから感謝しましょう。目に見えて集うことは叶いませんが、集えなくともつながっているということを、概念ではなく、実践のうちに見出し始めてもいます。
ご復活の主とともに、歩み続けましょう。主はわたしたちとともみいてくださるのです。

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