静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

復活節第3主日[A年]【説教に代えて】

本日は、主教さまをお迎えして堅信式、午後には島田伝道所での聖餐式が予定されていましたが、横浜教区では、緊急事態宣言を受けて全ての教会で礼拝の公開を休止しておりますので、延期となってしまいました。
主教さまからこの日のためにメッセージをお送りいただきましたので、掲載いたします。

主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いが御心にかないますように。アーメン

1)4月7日に7都府県に緊急事態宣言が出されました。横浜教区では神奈川県と千葉県がその対象地域となり、二県では平日を含むすべての礼拝が非公開、すなわち教役者と信徒が一堂に会してささげる礼拝を休止とし、教役者がそれぞれ派遣された教会で礼拝を守ることになりました。

しかし、その後、16日(金)には対象地域が全国へと拡大され、静岡県山梨県を含む教区内のすべての教会で、礼拝が非公開となり、一堂に集まって共にささげる礼拝は休止となりました。背景にあるのは、医療崩壊が迫りつつあるという危機意識です。しかし、既にそれは、日々、現実化しつつあるように思われます。
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私たちはそうした中で、主イエスさまの受難と死を辿る聖週を過ごし、ご復活の朝を迎え、それを祝う1週間を経て、今日、復活節第3主日を迎えています。今日、私たちに与えられている福音(嬉しさい知らせ)は、「目を開かれて新たに生まれる」ということです。

2)今日の福音書として与えられているのは、聖ルカの福音書第24章13節以下に記されているエマオでの出来事です。二人の弟子、これは12使徒には名前がない「クレオパともう一人の弟子」で、彼らがエルサレムから60スタディオン、約11㎞離れた郊外の村へ行くところから物語が始まっています。

「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」という二人は、主イエスさまが復活されたことを伝え聞いてはいたが、半信半疑だったようです。

そして、途中、どこからともなくご復活された主が彼らといっしょに歩き始められたのですが、「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と福音書記者は記しています。それは、「物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない」でいたからです。

歩きながら、主は二人に、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」ました。しかしそれでも、二人は目の前におられる方を認めることができなかったのです。

そして、主を敢えて引き留めていっしょに泊まることにし、夕食の席に着いた時、主がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人に渡されると、そこで初めて二人の目が開け、それが復活された主イエスさまであることが分かったのです。

3)この、「二人の目が開け、イエスだと分かった」と記されていることは、二人の弟子にとって今この時まで見えなかったものがその瞬間から見えるようになった、ということを表しています。

このエマオでの夕食で主イエスさまがなさったことは、あの最後の晩餐で、そしてガリラヤ湖畔で5つのパンと2匹の魚を5000人に分け与えられたところで、主ご自身がなさったことでした。

最後の晩餐を主と共にしたのは使徒と呼ばれる12人だけであったとしても、この二人の弟子は、そのことも、そして5000人の給食の奇跡も既に知っていたということも充分に考えられます。だからこそ、彼らは主がパンを裂くその姿に、自らの記憶が重なり合った結果、主を見出したのではないでしょうか。

そして、今まで見えていなかったものが見えるようになったということは、彼らが、半信半疑で主のご復活を受け止めていた世界、いわば主が十字架で死なれておられなくなった世界から、全く別の世界――十字架に掛かられて死んだ主が復活され生きておられる世界、つまりご復活の主がおられる新しい世界――に新たに生まれた、ということを意味しています。

そこでは、主イエスさまの苦しみと死、そして甦りが記念され、彼らの中でその一つ一つの出来事が彼らの中で現在化していくのです。今、二人の弟子は死んで復活され、生きておられる主に出会い、主と共にある――その新しい世界に彼らは生まれたのです。

そのことを、今日の使徒書の結び、ペトロの手紙①の第1章23節で、「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」、すなわち「あなたがたは、生きた言葉である主イエス・キリストによって新しい世界に生まれた」と、ペトロの手紙の作者は告げています。そして「新しい世界」とは、主イエスさまが復活され生きておられる世界なのです。

一方、第1朗読の使徒言行録の第2章でも、パンを裂くことを通して、主イエスさまをメシア(救い主、つまりキリスト)と信ずる人々が復活の主と出会い、主の甦りの命に陪かり、主と共に、すなわち、主の命に生き生きと生かされている様子が記されています。

4)このことは、4つの福音書でもそれぞれの表現をもって伝えられています。
聖マタイと聖マルコの福音書では共に結びで、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)、「主は彼らと共に働き…」(マルコ16:20)と記されています。

また、聖ルカは福音書に続く第2巻の使徒言行録で、使徒たちに聖霊が降ったことを証しており、聖ヨハネ福音書は第20章22節で、復活の主が使徒たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と告げられて、いずれも聖霊を通して復活の主が彼らと共に生きておられることが証されています。

復活の主は、パンを裂くそのみ姿の内におられ、生きておられることをエマオで二人の弟子に示されました。弟子たちは、そこで初めて主が甦られたことが真実であることを確かに悟り、目が開かれ、主が生きておられる新しい世界に主の命に生かされて、復活の証し人とされたのです。

それは、今日の第1朗読の冒頭の使徒言行録の第2章14節において、三度も主を知らないと言ってシラを切った“あのペトロ“が聖霊降臨の直後、使徒たち、つまり11人の弟子たちと共に立ち上がり、主イエスさまのご復活を力強く証している姿に現わされています。

そこには、使徒書で、「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」と語ったとされている、まさに目が開かれ、新たに生まれたペトロの姿があります。

ペトロと共におられるのは、私たちが献げている聖餐式で裂かれたパンとブドウ酒においておられ、私たちの内に生き、私たちと共におられるご復活の主イエス・キリストです。

今日の特祷で、「私たちの信仰の目が開かれ、贖いのすべてのみ業のうちに主を見いだすことができますように」と、私たちはごいっしょに祈った。私たちの罪の贖(あがな)い(私たちに代わってその罪を負われる犠牲)となられて十字架に掛かられ、苦しみを受けて死に、復活された出来事の内に、私たちは絶えずご復活の主を仰ぎ、その命を受けて生かされ、これからも主が先立って進まれた真の命に至るその御跡を、共にしっかりと辿って参りたいものです。

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