静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

復活節第4主日の説教にかえて

本日の特祷、また福音書が指し示しているように、今日は「良き羊飼いの主日」とも呼ばれ、日本聖公会では「神学校のために祈る日」として、主の民を牧する「牧師」の養成にあたる聖公会神学院(東京)、ウイリアムス神学館(京都)のために祈り、信施をささげます。
「良き羊飼い」とは。その答えを本日の福音書に訊ねてまいりましょう。わたしたちにとって「良き羊飼い」とは、主イエスにほかなりません。牧者はキリストの思いをわが思いとして、イエスさまの託される言葉を語ることをとおしてその民を牧して行く。羊たちはその声を聞き、その声の中にイエスの声を聞き取り、その牧者についていく。ついていくというと現代的でないと言われるかもしれません。一緒に命の草を食む牧草地へと歩んでいく、み国を目指して歩んでいく、牧師が、天のみ国を目指して歩む旅の同伴者であると言われる所以がここにあります。ここで一方で難しく、もう一方で喜ばしいことは、羊飼いである牧者は神の前に羊でもあり、羊である民はこの世界とそこに生きるすべての人に対しては羊飼いでもあるということです。
「羊飼い・牧者」ということを考えるとき、イエスさまの中にその答え、モデルを求めていくのはもちろんですが、わたしは旧約聖書のある人物の名前がいつも心に浮かんできます。それはモーセです。その昔、イスラエルの民はモーセに導かれてエジプトの奴隷の地から脱出し、神によって約束された地、カナンの地へと向かって荒れ野を歩み始めました。モーセの思いによらず、神がモーセを選び、この困難な務めに召し出したのです。そしてこの旅が容易ならぬものであったということはわたしたちのよく知るところです。
この長く困難に満ちた旅の末、彼らは遂に約束の地を見下ろすところまでたどりつきます。主はモーセにこう告げました。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えた土地を見渡しなさい。それを見た後、あなたもまた兄弟アロンと同じように、先祖の列に加えられるであろう。」四十年にわたってイスラエルの民を導き続けたモーセは、約束の地へと足を踏み入れることが出来ない、あなたの生涯はこの山の上で終わりを迎えるというなんとも衝撃的な言葉です。そこでモーセはこう祈ります。「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群のようにしないでください。」こうして主なる神は、モーセの後継者として、ヌンの子ヨシュアを立ててくださいました。主の共同体、羊の群は、この牧者、ヨシュアによって約束の地に足を踏み入れました。ここで福音書のあの有名な故事が思い起こされます。「イエスは…群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:36)
わたしたちが「イエス」という発音で慣れ親しんでいる、というよりも信仰しているお方の名前は、この時代、この地方において、アラム語またヘブライ語において「イエシュア」、「ヨシュア」と発音します。モーセは幾多の困難を乗り越え、約束の地を見渡すところまでその民を導いてきました。わたしたちもまた、その使命は、羊飼いとしてこの世界にあって、この世界の人々に、約束の地、天国といってよいかもしれませんが、その姿を示すことにあります。しかしここから山を下り、川を越え、約束の地へと民を導くのはモーセでないのと同様、わたしたちではありません。イエシュア、すなわちイエスです。イエスさまを通してしか、この川を越えることはできない、「わたしを通って入るものは救われる」というみ言葉が、はっきりとした像を結びます。
旧約聖書の登場人物、あるいは出来事、物語…。それらはとてもダイナミックで、新約聖書とはちょっと違う魅力があります。泥臭くって、人間味があって、親しみを持つことができる。モーセもそうでした。民と神に対して、時に泣き言を言ったり、怒ったり、不平をこぼしたり絶望したり…。いろいろと理由をつけて神に託された務めから逃げ出そうとしたり…。
わたしたち一人ひとりもまた、それぞれ託された信仰の生涯を人間臭く、泥臭く、怒り、笑い、泣きながらも、一生懸命歩んでまいりたいと思います。モーセはただ神からの務めを託されて分からず屋で頑なな民を導いて歩んだわけではありません。その間ずーっと、神はモーセに語りかけられました。モーセはその声に聴き続けました。わたしたちの旅路にも、イエスという同伴者がいてくださいます。このお方がどのようなお方かということをわたしたちは良く知っているはずですし、知らないことは旅を歩みながら尋ね求め続けることを通して、時にぼんやりと、時に明らかに、その答え、そのみ姿を示してくださいます。この道を歩み続けましょう。そしてアバリム山から約束の地を見渡しつつ、ついに「イエスさま、躓きもしましたが、ここまで一生懸命歩いてきました。あなたが一緒にいてくださったからです。ありがとうございました。後はお任せします。どうかしもべのことを忘れないでください。」と、約束の地を望みながら祈ることができたらいいなと思うものです。
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