静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

2021年2月21日(日)~4月4日(日)の予定

2月
21(日)大斎節第1主日
 聖餐式(7:30)
み言葉の礼拝(10:30)
24(水)使徒聖マッテヤ日
 聖餐式(10:00)
26(金)2月度逝去者記念聖餐式
(10:00)
28(日)大斎節第2主日
 聖餐式(7:30・10:30)
※3月…聖餐式聖書日課
「新共同訳版(B年)」
 を用います。
 ご用意ください。
7(日)大斎節第3主日
 聖餐式(7:30・10:30)
教会委員会(13:00)
14(日)大斎節第4主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 婦人会例会(礼拝後)
19(金)聖ヨセフ日
 聖餐式(10:00)
21(日)大斎節第5主日
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
25(木)聖マリヤへのみ告げの日
 聖餐式(10:00)
26(金)3月度逝去者記念聖餐式
(10:00)
28(日)復活前主日(枝の主日
 聖餐式(7:30・10:30)


4月
1(木)聖木曜日
2(金)聖金曜日(受苦日)
3(土)聖土曜日
4(日)復活日 聖餐式
(7:30・10:30(主教巡杖))
教会委員会(13:00)

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大斎節の黙想〈Ⅰ〉

大斎節の
ヘブライ人への手紙11章より 〜
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。…信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(11:1,3)
ヘブライ人への手紙」の由来について、だれがだれに宛てて書いたものなのか、実はほとんどわかっていません。諸説ありますので“おそらく”という前置き付きですが、研究者たちは本文で取り上げられていることがらを手がかりに、旧約聖書に精通するユダヤ教からの改修者で、改宗したのだけれど、ユダヤ教的な信仰のありようからもう一歩踏み出しきれずに(訣別できずに)、揺れ動いている人たちではなかろうかと言われています。そのような人たちに向かって、11章では旧約聖書の登場人物を例示して「信仰とは何か」を説いています。
「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り…」(7節)。わたしたちは明日から突然船を造り始めるでしょうか。海や川から離れたところで突然大きな船を作り出す人を見た人は、彼を何と思うでしょう。
「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(8節)。アブラハムは年老いていました。多くの羊を飼い、羊の世話をする雇い人もいました。彼は豊かに暮らしていたのです。わたしたちはその場所、その生活を手放して旅立つことができるでしょうか。そうする彼を見て、人々はどう思うでしょう。
目に見えるものは、わたしたちに船を作る必要も、今ある生活を手放す必要も示しません。誰の目にも“愚か”な決断でしょう。しかし、目に見えるものは、目に見えない神が創造し、支え、保ち、治めているのです。
父と早く死に別れたロトは、叔父であるアブラハムと一緒に暮らしていました。彼らはカナンの地で遊牧生活を営んでいましたが、群れが大きくなりすぎたために、別々に暮らすことになりました。アブラハムはロトに、好きな方を選ぶように勧めました。ロトは見るからに豊かな地を選び、アブラハムは見劣りのする方へと進みました。ロトが選んだのはソドムという町、豊かさゆえか、人々の心は荒んでいました。やがて神さまはソドムの町を滅ぼすことになさるのですが、その際、アブラハムに命じてロトたちを助け出します。しかし、「後ろを振り返ってはならない」という神さまのご命令に反して、ロトの妻は逃げるときに振り返ってしまうのです。彼女はそこで“塩の柱”になってしまいました。そこを逃れて生きよという神さまのご命令の先にある丘の上への希望が、ひどい目にもあったけれど豊かさを享受したソドムの町への未練が優ってしまったのです。
わたしたちは“目には見えない方”の“約束”を信じ生きています(あるいは、そのように努めています)。それは、丘で船を造る愚かさ、豊かさと安定を放り出す愚かさを生きることでもあります。
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「いちばんたいせつなことは、目に見えない」おそらく知らない人はいない、サン=テグジュペリ作『星の王子さま』の中でも最も有名な言葉です。わたしにとっては“第二の聖書”のようにたくさんのインスピレーションを与えてくれる物語です。「目に見えないけれど大切なものは、神さま」と、簡単に解決してしまわずに、じっくりと思いを深めてみましょう。「わたしの目と心を奪うもの」、「わたしが大切だと譲れないもの」が何かを問うていくことも、ほんとうに大切なものを見出していくための大きな力になるはずです。

月報聖ペテロ巻頭言

大斎節を迎えて
司祭 エドワード 宇津山 武志

大斎節を迎えました。復活日へと向かうこの四十日間をわたしたちはどのように過ごすように求められているでしょう。「大斎始日の礼拝」は冒頭でこのように簡潔に勧めています。
① 一人ひとりの内なる生活を顧みて悔い改め
② 祈りと断食に励み
③ 自己本位な生き方から解かれて愛の業を行い
④ また神の聖なるみ言葉を熟読し、黙想する
大斎節が信仰生活にとってとても大切だということは、わたしたちが繰り返し聞かされてきたことです。それでも(いや、「だからこそ」と言った方がいいかもしれません)、わたしたちはその大切さを「忘れてはいけない大切なもの」として心にしっかり収め、きちんと整理して本棚に仕舞い込んでしまうのです。さあ、大斎節の意味に立ち返るために、本棚から引っ張り出し、埃を払って紐解いてみましょう。
「悔い改め」とは、神さまに向き直ること。それには内なる生活を顧みることが必要です。神さまはわたしたちに、それぞれの生涯を賭けてご自身が指し示すゴール、すなわち神の国へ向かって歩むようにと願っておられます。以前お話ししたように、神さまはアブラハムに向かって、「わたしにしっかりと従ってきなさい」とではなく、「わたしの前を歩んでいきなさい」とお命じになりました。その道筋には山があったり谷があったり、濃い霧で覆われたりと、行くべき道が見えなくなってしまうことがよくあります。あるいは、勝手に「この道で大丈夫」と早合点してどんどん歩いていってしまうこともあるでしょう。わたしたちは振り返らなければなりません。
祈りは神さまとの対話です。こちらからお話しすることが多いですが、聞く努力も必要です。そもそも、わたしには誰にも見えないけれど、話し相手がいてくださるということです。さらに断食はその方にわたしたちの生活がいかに依存しているかということを思い知らせます。これも時々申し上げますが、大斎節だからといって、お酒やタバコ、大好きなチョコレートといった嗜好品を“我慢”するというのは違います。必要品を断つのです。ただ、現在は医学的に健康に悪影響を及ぼすほどの断食は控えるように指導されています。大斎克己献金はその一つの手段です。例として、おかずを一品減らし、それを克己の果実としてお献げするという方法もあります。だから、イースターの前日にお札をという使い方はしないで、ぜひ封筒についている穴を利用してください。
自己本位(自己中心)は、神さまの王座を横取りすることです。王座は神さまにお返ししましょう。すると、王座の周りにいる人々が、大切なきょうだいであることに気づきます。きょうだいの困窮・必要を見過ごしにはできません。互いに愛をもって支え合うとき、そこに神の国の先駆けが生まれます。人々はそれを見ます。それが福音宣教です。
さて、わたしたちは神さまに振り返り、神さまに聴くことが大事だと申しました。神さまの答えの多くは聖書の中に示されています。スッと解ることも、なかなか腑に落ちないこともあります。そのためにわたしたちは黙想をするのです。信仰の先達の思索に耳を傾けることも重要です。いい本を見つけ、大斎節の四十日間をかけてゆっくりと読み進めていくのもいいでしょう。充実した大斎節を過ごし、喜びに満ち溢れた復活日をともに祝いましょう。
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2021年1月24日~2月28日の予定

1 月
24 (日) 顕現節第3主日
聖餐式(7:30)
み言葉の礼拝(10:30)
25 (月) 使徒パウロ回心日
聖餐式(10:00)
31 (日) 顕現節第4主日
聖餐式(7:30・10:30)
堅信受領者総会(礼拝後)

2 月
2 (火) 被献日 聖餐式(10:00)
7 (日) 顕現後第5主日
聖餐式(7:30・10:30)
教会委員会(13:00)
14 (日) 大斎節前主日
聖餐式(7:30・10:30)
婦人会例会(礼拝後)
信徒 納骨式
17 (水) 大斎始日
(灰の水曜日)
聖餐式(10:00)
21 (日) 大斎節第1 主日
聖餐式(7:30)
み言葉の礼拝(10:30)
ホームミッション委員会(14:30)
24 (水) 使徒聖マッテヤ日
聖餐式(10:00)
26 (金) 2 月度逝去者記念聖餐式
(10:00)
28 (日) 大斎節第2 主日
聖餐式(7:30・10:30)
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月報聖ペテロ巻頭言

「谷川の水を求める鹿のように」
         司祭 エドワード 宇津山 武志

 こんなに寒い冬になんですが・・・
日曜学校やボーイスカウトでは、夏になるとよ
くキャンプに出かけます。“下界”の酷暑から逃れ、
高原の心地よい風に癒されますが、それでも山歩
きとなると強い日差しにげっそり、汗もかき、喉
も渇きます。最近では運動中の水分補給は鉄則で
すが、「先生、喉が渇いた」と、子どもたちが泣き
言を言っても、ちゃんと下見のときに確認してル
ートに入れておいた渓谷の清流までは我慢です。
斜面を下るにつれて水の音が大きくなり、ワクワ
クしてきます。そしてついに川に到着。まずは手
を入れ顔を洗い、靴も脱いで大喜びです。10秒も
浸かっていられないくらい冷たい水の気持ちの良
いこと。これも今ではご法度ですが、口に運ぶと、
本当に癒されました。
「谷川の水をあえぎ求める鹿のように
神よ、わたしの魂はあなたを慕う」
詩編42編冒頭の美しいこの一節に、以前はそん
な光景を思い描いていました。聖公会の信徒も聖
職も、有名な詩編の言葉は祈祷書で記憶してしま
いますね。たまには聖書の翻訳に触れてみましょ
う。「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わ
たしの魂はあなたを求める。」(新共同訳)、「鹿が
涸れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂
はあなたをあえぎ求める。」(聖書教会共同訳)。な
んだかずいぶんと雰囲気が異なりますね。囂々と
音を立ててどころか、チョロチョロとさえも流れ
ていないようです。はてさて、これはどうしたも
のでしょう。
聖地イスラエルパレスチナの地は雨季と乾季
がはっきりと分かれていて、山といっても茶色い
土が露出して、わたしたちが思い浮かべる「鬱蒼
とした森」などというものがありません。山は雨
水を蓄える能力が乏しいので、一度降った雨は山
肌を削りながら猛烈な勢いで低いところへと流れ
ていきます。雨季が終わると、そこは急峻な谷だ
けが残り、水は姿を消してしまいます。これが「涸
れ谷」です。
水は生死を分けます。40度を越す暑さに渇き消
耗したわたしには、おそらくこの涸れ谷を下る勇
気はないでしょう。そこに水がなかったら、もう
一度登らなければならないのですから。
「この谷の底には水はない」というのは極めて
理性的な判断です。逆に言えば、水を求めて涸れ
谷を下ることは愚かな判断でしょう。でも、鹿は
谷を下りました。鹿にそうさせたのは理性ではな
く信仰です。己の経験と知恵への信頼ではなく、
神の計らい、神の愛への信頼です。
むかし、ペトロがイエスさまの「来なさい」との
言葉に、一歩船縁から湖の上に踏み出したとき、
彼は水の上を歩いて主の招かれるところへと進ん
でいくことができました。しかし強い風に怖れ、
我にかえったとき、その足は沈んでいきました。
強い風は理性を呼び覚まし、わたしたちを我にか
えします。信仰によって神にかえる道を選びまし
ょう。
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