静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

大斎節の黙想〈Ⅱ〉

大斎節の黙想〈Ⅱ〉
豹変  〜聖週の出来事から〜


大斎節のクライマックスとなる聖週は「復活前主日」から始まります。英語圏の教会では概ね “Palm Sunday”(枝(棕櫚)の主日)か“Passion Sunday”(受難の主日)です。「復活前主日」という名称は、「来週は復活日です」と、時間の経過や物事の順序を言うのみで、この日に合わすべき焦点、救済史の中で見出すべき意味がぼんやりしてしまうように感じています。次の祈祷所改正ではぜひ「受難の主日/枝(棕櫚)の主日」としていただきたいと思います(余談ですが、もう一つは「降臨節主日」、これも「王なるキリストの主日」として欲しいですね)。
さて、棕櫚とは「ヤシ科シュロ属の常緑高木の総称」(広辞苑)で、まず思い浮かぶのは教会の庭にも植っているうちわのようなかたちのものでしょう。これは日本原産のワジュロという植物です。厳密には二千年前のパレスチナにはないはずですので、混同を避けるためにあえて「枝の主日」という呼び方をするのでしょう。実際にはナツメヤシの系統の枝であったと思われますが、棕櫚が広くヤシ科の植物全般を表す習慣を考えれば「棕櫚の主日」の方がイメージしやすいかもしれません。いずれにしても、棕櫚は古くから勝利を象徴するもので、民はこれを高く掲げて振り、王の凱旋を祝いました。このような習俗に従って、イエスさまは神の都エルサレムに王として歓呼をもって迎えられたのでした。
しかしながら、民の歓喜の熱狂はわずか数日で憎悪へと豹変します。イエスさまを迎えた“ホサナ”の叫びは、“殺せ”、“十字架へつけろ”へと変わるのです。わたしは、それが本当に憎悪からくる叫びであったかには懐疑的です。おそらく本当に憎らしく思っていたのは祭司長や律法学者、ファリサイ派といった民の宗教的・政治的指導者たちであり、民衆もポンテオ・ピラトさえも、そのうねりと高まりに流され、抗することもできなかったのだと思うのです。だとしても、熱狂は人を死に追いやる力を持つものだということです。近年、(自分の)正義という剣を振りかざし、非のある(と決め込んだ)人を徹底的に糾弾する風潮が際立ってきたように思います。実際のところ、それは憂さ晴らしに過ぎません。テレビで悪役に仕立て上げられた女性が自ら命を絶った痛ましい事件も記憶に新しいところです。
わたしたちもまた、そのような人のひとりです。なんと恐ろしいことだろうと、胸が苦しくなります。「救いようがないじゃないか…」と。しかしだからこそ、イエスさまは十字架への道を歩まれたのです。その肩に十字架を担い。重たかったことでしょう。イエスさまは何度も倒れられました。しかしそれでも、イエスさまは歩むことをやめられませんでした。その肩に重く食い込むのはわたしたちの罪です。この大斎節の締めくくり、ことに復活前主日から始まる一週間、豹変する民の姿の中に露わにされるわたしたちの罪と、それゆえにこそある神のみ子イエスさまの十字架の贖いに心を向けて過ごしましょう。そして罪を赦された深くて大きな喜びをもって復活日を迎えましょう。

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