静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ10月号巻頭言

ちょっと息抜きでも
司祭 エドワード 宇津山 武志

しばらく前の主日の聖書日課で、アダム(人間)の創造について触れました。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)。土の塵で造られたわたしたちは、神の息を吹き込まれることによって生きる者となります。
仕事柄、わたしはいざというときのために日赤の救急法の講習を受けています。そこでは必ず人工呼吸や心臓マッサージ「心肺蘇生」の基礎を学びます。わたしはまだ練習用のマネキン相手にしかしたことはありませんが、途中を随分省略すると人工呼吸は「自発呼吸」が回復すれば、もう必要はありません。様子を観察し、救急隊員の到着を待ってバトンタッチ、お役御免となります。
アダムも一度神さまに命の息を吹き入れられ、生きるものとなってからは園の中を自由に歩き回っていますから、あとはアダムの自発呼吸にお委ねになったのかもしれません。ただその自発呼吸の間に、アダムは道を踏み外してしまいました。
わたしたちは海中に潜るとき、海面で大きく息を吸い、息を止めてドボン、水中眼鏡をつけていると色々なものが見えてとても楽しいのですが、すぐに息苦しくなります。そして海面に戻ってプハーッと息を吐き出しもう一度新鮮な空気を吸い込む。もう少し長く潜っていられたらいいのですが、その繰り返しです。
茂原にいた頃から、健康づくりのためによくプールに通いました。藤沢は徒歩3分のところにありましたので、週に二回くらいは通っていましたね。距離を泳ぐためには息継ぎが必要です。この息継ぎが意外と厄介で、初心者がムキになると、水面に顔を出したときには短い時間でとにかくいっぱい空気を吸わなくちゃと力んでしまう。すると、吸うことばかりに意識が向かい、しっかり吐くことを忘れてしまう。体に溜まった二酸化炭素を十分に吐かないものですから、酸素を十分に取り込めません。で、どんどん苦しくなってしまうのです。溺れるという無意識の恐怖がそうさせるのでしょう。
息をすることは生命に直結します。だからでしょうか、日本語には息を用いたたくさんの言葉があります。「息が詰まる」といえば、緊張しすぎて息苦しくなること。「息を呑む」といえば緊張してじっと見守ること。もちろん緊張がもたらす効用もあるでしょうが、今日はちょっとそれは脇へ置いておき、宗教的なイメージの中で捉えてみましょう。困難に直面すると、わたしたちは息を止めて身構えます。息によって神の命と繋がっていることを忘れてしまうのです。すると一人でジタバタするほかない。やがて苦しくなる。もがく。窒息する。そうして正常な判断を失い、神との関係も断たれてしまうのです。
そのときわたしたちは息を吐き出さなければなりません。吐く息とともに「イエスさま!」、「神さま!」と叫ぶのです。すると吸う息とともに、神さまはわたしたちに「命の息を吹き入れ」てくださるのです。まずは息を抜かなくちゃ。抜けば新しい空気が入ってくる余地が生まれます。それが神の命を生きることです。
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