静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

主日のみ言葉 聖霊降臨後第21主日(特定24)

2021年10月17日
聖霊降臨後第21主日(特定24)
※礼拝の公開が再開されましたが、種々の理由で教会の礼拝に集うことが困難な方のために、当面主日のメッセージを掲載します。
特祷
主よ、どうかみ民の罪を赦し、豊かな恵みにより、弱さのために犯した罪の束縛から解放してください。天の父よ、救い主、イエス・キリストのいさおによってお願いいたします。アーメン
旧約聖書 イザヤ書 53:4〜12
使 徒 書 ヘブライ人への手紙 4:12〜16
福 音 書 マルコによる福音書 10:35〜45
お手許にに聖書・聖書日課がなくても、インターネットに接続できる環境から「ユーバージョン」(bible.com)などで読むことが可能です。
今日のみことばから
本日の福音をお読みになって、まずどのようなことを感じるでしょう。わたしは人間ができていないので、ヤコブヨハネを「なんていやな奴らだろう」と、言葉は悪いですが、そんな風な思ってしまいます。そして、他の十人の弟子たちの腹立ちも至極当然のことのように思われます。でも、ここで少し立ち止まってみたいと思うのです。弟子たちの腹立ちとは一体どのようなものだったでしょう。
ひとつこのように考えてみましょう。「あの二人はイエスさまの深いみ思いがまったく分かっていない。イエスさまがどのような救い主なのか考えたことがないのか。」だとしたら、イエスさまの思いを彼らは理解していて、腹を立てた。わかります。
でも、はたしてそうだろうか。彼らの怒りの原点はどうやらそうではなかったように思います。「なんだ、あいつらは。抜け駆けをして。俺だって、いやこの俺のほうが相応しいはずだ。」そういう嫉妬だったのではないだろうか、わたしにはそう思われるのです。
この出来事は、主イエスさまが弟子たちとともに、いよいよエルサレムへ向かう、つまり、十字架の死へと向かうその旅の途上に起こった出来事です。そのときの模様をマルコはこのように伝えています。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」この情景を心に描くとき、わたしたちの注意を惹きつけるのは、先頭に立って進んでいかれる主イエスさまを見て、弟子たちが驚き、恐れたということです。彼らはなぜ驚き、恐れたのでしょう。イエスさまはこれまで、二度にわたって、ご自分が「長老・祭司長・律法学者たちから排斥されて殺されねばならない」と予告してこられました。イエスさまを先頭に進んでいく先は、その長老・祭司長・律法学者たちが待ち受けるエルサレムです。これまでの二度にわたる受難予告のたびに、弟子たちのイエスさまに対する、殊に受難するメシアということに対する無理解が強調されてきました。最初はペテロが「そんなことがあってはなりません」と諌め、二度目は「弟子たちの中で一番偉いのは誰だろう」と議論しあっていたことが伝えられています。その度に、イエスさまは弟子たちに向かって「そうじゃないんだ」と諭し、教えてこられました。弟子たちもようやく、エルサレムへ進んでいかれるイエスさまの後ろ姿を見て、ことの重大さ、エルサレムで起ころうとしていることを理解し始めたことが、弟子たちの驚き、恐れる姿に見て取ることができます。そんな彼らに向かって、イエスさまは三回目の、最後の受難予告をなさいました。「イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。『今、わたしはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打った手で殺す。そして、人の子は三日の後に復活する』」イエスさまは後ろに従ってくる弟子たちの恐れを感じ取られたに違いありません。そして、彼らの恐れ、彼らが理解し始めたことの正しさを、この最後の受難予告によって念押ししたのだと言えるでしょう。それなのに…です。本日の福音書はこれに続く出来事です。いったい何を考えているんだと…。
ところが、二人の弟子たちのこの的外れな願い、そして他の十人の腹立ちを見たイエスさまの反応もわたしたちの予想をはるかに越えています。わたしだったら、「おまえたちは何を言っているんだ。これまで何を聞いてきたんだ。」そんな怒りすら感じられそうなところで、イエスさまは「一同を呼び寄せて言われた」と、しっかりと、じっくりと、諭すように教えられるイエスさまの姿が記されているのです。
エスさまはここで、二人だけでなく、十二人の弟子たちに向かって諭されました。それは、彼らの心が、十字架の先にある栄光にばかりいってしまっている、その目と心を十字架へと引き戻すためです。マルコがこの福音書を記したのはイエスさまの時代から三~四十年を経たころでした。当時のキリスト者の心もまた、栄光ある救い主であるキリスト・イエスのむごたらしい十字架から遠のいてしまっていたのだとおもうのです。十字架は栄光への単なるステップ、通過点に過ぎないという考えです。ちょっとオーバーに言えば、「十字架?まあそんなことはどうでもいいじゃないか。イエスさまはご復活なさって、わたしたちに永遠の命の門を開いてくださったのだから。わたしたちは救われたんだ。わたしたちもまたその命にあずかるものとされたのだから。」だからこそマルコは、この出来事を通して、読者の心に十字架の意味をもう一度刻み付けなければならなかったに違いありません。救われたわたしたちは、神の子が血を流して贖ってくださったわたしたちであると。
本日の旧約日課は、この十字架の意味、救い主の受ける苦しみの意味を美しく歌い上げています。ここでもう一度読み返すことはいたしませんが、どうぞ、ご自宅に帰って、このところをじっくりと味わいながら読み返していただきたいと思います。
本日の福音に示された報いに頼る、弱くて心もとない弟子たちの姿は、わたしたちの姿そのものです。しかし、それでも彼らは、躓きながらもイエスさまに従って歩んでいくことをやめようとしませんでした。恐れのあまり頼りない歩みであっても、主のみ跡に従っていく弟子たちでした。どうかわたしたちも、恐れながらも、迷いながらも、躓きながらも、主のみ跡を歩み続けていくことができますように、そして人類を深く愛し、人々に仕える者となられたイエスさまのように、わたしたちにも神と人々に仕える勇気が与えられますように。わたしたちの主は「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」方です。「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜に適った助けを頂くために、大胆に恵みのみ座に近づこうではありませんか。」ヘブル書のこの言葉を深く心に刻み、信仰に一歩踏み出しましょう。

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