静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL・FAX 054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

主日のみ言葉 聖霊降臨後第22主日(特定25)

2021年10月24日
聖霊降臨後第22主日(特定25)
※礼拝の公開が再開されましたが、種々の理由で教会の礼拝に集うことが困難な方のために、当面主日のメッセージを掲載します。
特祷
全能の神よ、み子イエス・キリストは、小さい者のために行うことはわたしのために行うことになる、と教えられました。すべての人のしもべとなり、わたしたちのために命を捨て、死なれたみ子のように、わたしたちにも隣り人のしもべとなる心をお与えください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
旧約聖書 イザヤ書 59:9〜19
使 徒 書 ヘブライ人への手紙 5:12〜6:2,9〜12
福 音 書 マルコによる福音書 10:46〜52
お手許にに聖書・聖書日課がなくても、インターネットに接続できる環境から「ユーバージョン」(bible.com)などで読むことが可能です。
今日のみことばから
ここ数週間にわたって、わたしたちはイエスさまに何ごとかを願う人びとの姿に触れてまいりました。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」と(悪意をもって)問う人。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と問う人。彼らは教えを乞うています。教えを垂れるとか、教えを授けるとか、そういう表現がありますが、教えを受け取ったわたしが、それに基づいてどう振る舞うのか。先週はヤコブヨハネの兄弟が「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」と随分ストレートに願い出ています。「何をしてほしいのか。」と、イエスさまもまたストレートに聞き返されました。彼らは「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と、第一印象として、的外れだなと思うようなことを願っています。その願いがかなえられたとして、彼らはそこでどう振る舞うのでしょう。これまで彼らを虐げてきた人々への意趣返しなのでしょうか。どこか利己的な臭いも覚えます。
今日の福音、エリコの町外れで物乞いをしていた盲人バルティマイ。度々お聞きになることでしょうが、当時の社会的・宗教的な常識として、障害や病いは、罪の結果、それが本人であれ先祖であれ、本人も周りの人びとも、はっきりと「これだ」という原因が分からなくとも、いやヨブがそうだったようにむしろ分からない、神の怒りに触れた、その報いとして受け取ったものと考えられていました。“因果応報”といったイメージです。そしてもう一つ、神の前に清らかであるために、つまり、神に喜んでいただくために、救いに与るために、当時の人びと、特に宗教的エリートたちは罪人や穢れとの接触を避けた。また、民衆にも、あなたが清くありたいのなら、あなたが罪を犯さないのはもちろんのこと、罪人との接触は避けなさいと教えた。町を歩けば知らず知らすのうちに罪人に触れます。そうして汚れを身に帯びる。だからエルサレム神殿の境内に入るときには沐浴槽で身を清め、服も着替えるのです。
バルティマイは目が見えないから色々なことができない、そういう理由ではなく、罪人だからという理由で共同体からは追い出され、行き場のない“路上”をさまよい、物乞いとして人びとの施しを頼りに生きていくほかなかったのです。
彼にもイエスさまの評判が耳に入っていました。そのイエスさまが通って行かれる、いやむしろ、この町を出てエルサレムへと向かって行かれる。このときを逃したらもう次はない。彼は必死に叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐んでください。」一度や二度ではなかったようです。繰り返し、おそらく声の限りに。これが彼の願いです。「わたしを憐れんでください。」
憐れみを願う。わたしたちも礼拝の度ごと、祈りの度ごとに、主の憐れみを願います。「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」と、今日もそう祈ってこの礼拝(聖餐式)を始めました。憐れみとは、冒頭に触れたような、願ったことに答えて与えられ、わたしたちがそれを受け取るというものではありません。憐れみとは、神が人間に対して持つ唯一の態度です。英語圏の聖書では、「揺るがぬ愛」、「慈愛」などとも訳されます(『キリスト教神学事典』)。神のこの態度は行為によって表現される。わたしたちが「あわれむ」という言葉を使うとき、ともすると悲哀の“哀”を思い浮かべる。かわいそうに思う、そういったニュアンスを帯びてしまうことがありますが、イエスさまがわたしを可哀想に思ってくださる、同情してくださるというのではない、憐れみとは、わたしたちの救いのために神さまが実際にしてくださる、ことにキリストにおいて成就した救い、キリストのご生涯が凝縮されていると言っても言い過ぎではありません。
冒頭に紹介した「教えを乞う」のとも、こんなふうになりたい、こんなものを手に入れたいなどの「願いごとを叶えていただく」のとも決定的に違う、わたしの命への神さまの介入の願いです。
エスさまはヤコブヨハネにお聞きになったのと同じように「何をしてほしいのか」とバルティマイに訊ねられました。彼は、「目が見えるようになりたい」と答えます。それは彼は目が見えなかったからなのですが、これは単なる癒しの奇跡にとどまるものではありません。「わたしは神さまからも人びとからも引き裂かれ、孤独の中に置かれています。わたしには神さまのご意志が見えないんです。”」現代社会においても、多くの人がこの問いの中に苦しみもがいています。“よろしい”その叫びは聞かれました。見えるようになった彼の視界に真っ先に入ってきたのが、神が人類の救いのためにお送りくださったイエスさまでした。
“さあ、行きなさい”と促されましたが、彼は「なお道を進まれるイエスに従った。」と今日の福音は締めくくります。
「主よ憐れみたまえ」との祈りをもって始まった聖餐式は、その終わりに「ハレルヤ、主とともに行きましょう」、「ハレルヤ、主のみ名によって アーメン」と唱えます。聖餐式は、まさにキリストの到来によって、そのみ言葉とみ机の養いを通して、救いの成就を喜び祝う感謝の祭です。喜びのうちに、主とともに行きましょう。


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