静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ巻頭言

神はなぜ
司祭 エドワード 宇津山 武志

先日、ある方とロシアによるウクライナへの侵略について交わした立ち話の中で、「神はなぜこのようなことをお許しになったのか」との憤りともいえる思いに接しました。わたしたちは、“人生”の中で―などと言わずとも“日常生活”の中で―しばしばこのように問わざるを得ない場面に遭遇します。最も近く思い出されるのが東日本大震災です。未だ行方のわからない方を含め二万人を超える命が奪われました。その様子を、リアルタイムでテレビの画面で見ていました。「神はなぜこのようなことを…」と、自分自身に問いましたし、問われもしました。その明確な答えは見出せませんでしたし、今もそれは変わりません。ただ一つ思い至ったのは、神がそれをお許しになったのではないということ。生き残った人に何かのメッセージや教訓を残すために、人が死んでいくのを許されたわけではないということです。もちろん、そこからわたしたちは何かのメッセージを読み取ることができるでしょう。しかし、そのために神は誰かの命を奪うことはされないということです。神は間違いなく、「分からない…」と立ち尽くす人の傍にいてくださるのです。
一方、ウクライナで起こっているのは、このような自然災害に起因する悲劇とは全く様相を異にするように思います。「神はウクライナで起こっているようなことをお許しになったのか。」この問いには、もう少しはっきりと「ノー」と答えられます。すなわち、「神が人類に与えてくださった自由意志の濫用である」と。
創世記には二つの創造物語が収められています。一つは「初めに、神は天地を創造された。」から始まる物語(1:1〜2::4a)、もう一つはアダムとエバが登場する物語(2:4b〜25)です。一つ目、神は天地創造の締めくくりとして、「我々にかたどり、我々に似せて」人を造り、「すべてを支配させよう」とされました。ここでいう“支配”とは、“仕える”という意味に近い言葉です。二つ目、神は土の塵で人(アダム)を造られました。そして「人が独りでいるのは良くない」と、「彼に合う助ける者」を造ろうと決心なさり、「野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶかを見…、人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名」となりました。最後に、本当にふさわしい助け手として女(エバ)を造られたのです。「助ける者」は助けられる者なしに存在し得ません。わたしたちは造られたこの世界も含め、相互に依存し合って生きていくことが創造の初めから定められているのです。さらに、わたしたちが一つであるのは、増えていくためであって、減らしていくためではありません。
これら二つの創造物語に共通するのは、わたしたちが神さまの操り人形ではないということ、与えられた命の時間に自由を行使することが許されているということです。しかしその自由の行使を間違えるとき、人は神に背を向け、助け合うはずの存在をも破壊してしまいます。
与えられた自由によって“神のように振る舞う”ことが悲劇を引き起こすことをわたしたちは“自分”という次元でも日々経験しています。そういう自分と戦うことー克己ーは大斎節のテーマでもありますが、神の造られた“良し”となさるこの世界、神のかたどりを生きる命を破壊する悪の力ともわたしたちは戦っていかなければなりません。武器によらず戦う道を神がお示しくださるように祈り求めます。
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