静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL・FAX 054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

2021年4月18日(日)~5月23日(日)の予定

4月
18日(日)復活節第3主日 
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
23(金)4月度逝去者記念聖餐式
 (10:00)
25(日)復活節第4主日
 聖餐式(7:30・10:30)
礼拝後、物置整理・粗大ゴミ廃棄をいたします。
26(月)福音記者聖マルコ日
 聖餐式(10:00)
28(水)静岡県ホームミッション合同礼拝
・島田伝道所感謝の集い
島田市地域交流センター歩歩路 11:00)

5月
1(土)使徒聖ピリポ・使徒ヤコブ
 聖餐式(10:00)
2(日)復活節第5主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 教会委員会(13:00)
9(日)復活節第6主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 婦人会例会(礼拝後)
13(木)昇天日
 聖餐式(10:00)
16(日)復活節第7・昇天後主日
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
23(日)聖霊降臨日
 聖餐式(7:30・10:30)
 ステンドグラスアンケート締め切り
 島田集会 聖餐式(14:00歩歩路)

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月報聖ペテロ巻頭言

あなたがたに平和があるように
司祭 エドワード 宇津山 武志

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへイエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(ヨハネによる福音書20:19)
あの木曜日の恐ろしい出来事の後、弟子たちの心は恐れ、悲しみ、後悔、悔しさ、諦めなどが入り混じり、痛く、暗く、疲れ果てていたことでしょう。主と慕い仰いだ方の非業の死から三日目の朝、「主の復活」の知らせをマグダラのマリアから聞きました。しかしその知らせそのものが、彼らを力づけたわけではありませんでした。それが到底信じ難いことであったのはもちろんのこと、彼らもまた、大罪人の仲間として捕らえられ殺されてしまうのではという恐怖に囚われていたからです。
幸いにもわたしたちは「復活」という既成事実(教会の歴史の中で整えられた信仰)からこの物語を読んでいますので、彼らの恐怖心や痛恨の極みのような感情を共有するのは至難の業です。「十字架上の痛ましい最期」は「栄えある復活・死への勝利」という結末が常にパッケージとして理解されるからです。ちょっと言い過ぎでは?とお叱りを受けるかもしれませんが、結末を知った推理小説のようになってしまうのです。事実、教会の最初期の歴史の中で、「救い主の非業の死」という難解な出来事は視界から消え、「死への勝利」ばかりがもてはやされるということを経験しています。だからこそ聖パウロは、そういう風潮を厳しくいさめたのでした。
昨年のイースター、わたしたちは言いようのない恐れと不安の中で迎えました。得体の知れない疫病がわたしたちの命を脅かしていました。感染症の専門家の「こうしたら防げる」という言葉に従いながらも、とても安心という気持ちには至りませんでした。心がついていかないのです。こうした経験を、あまりにきれいに聖書に当てはめるのははばかられますが、「疫病(ウイルス)を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」、そう振り返ることができるように思うのです。もちろん“第四波”の門口に立ち、昨年のような恐れと不安から解放されているわけではありません。更なる注意も必要でしょう。ただ、そこにも信仰的な視点を見出していきたいと思います。イエスさまのメッセージは単純なものでした。「あなた方に平和があるように」。「平安」とも訳されます。誰かと争わない平和とは違います。「ちょっと落ち着きなさい」とも「安心しなさい」とも違う。主をわが内に迎え、そのみ言葉、その招きに気づき、開き、委ねるときに生まれる平和・平安です。わたしたちは危機に直面するとどんどんと閉じていきます。外からは光も言葉も入ってきません。イエスさまが中にいてくださるのも暗くて見えないかも知れませんね。「何をやってるんだい、真っ暗じゃないか。こんなに暗く閉ざしていたら何も見えやしないよ」と、わたしの心のうちにいてくださるイエスさまはきっと戸を開け放ってくださるでしょう。

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2021年3月21日(日)~4月28日(水)の予定

3月
21(日)大斎節第5主日
 聖餐式(7:30)
み言葉の礼拝(10:30)
25(木)聖マリヤへのみ告げの日
 聖餐式(10:00)
26(金)3月度逝去者記念聖餐式
(10:00)
28(日)復活前主日(枝の主日
 聖餐式(7:30・10:30)
島田伝道所 聖餐式
(14:00 歩歩路)

4月
1(木)聖木曜日
 洗足式・聖餐式(18:00)
2(金)聖金曜日(受苦日)
 受苦日礼拝(12:00)
聖金曜日の礼拝(15:00)
3(土)聖土曜日
 夕の礼拝(18:00)
4(日)復活日 聖餐式
(7:30・10:30(主教巡杖))
教会委員会(13:00)
11(日)復活節第2主日
 聖餐式(7:30・10:30)
婦人会例会(礼拝後)
18(日)復活節第3主日
 聖餐式(7:30)
み言葉の礼拝(10:30)
23(金)4月度逝去者記念聖餐式
(10:00)
25 (日) 復活節第4主日
 聖餐式(7:30・10:30)
26(月)福音記者聖マルコ日
 聖餐式(10:00)
28(水)静岡県ホームミッション合同礼拝
島田市地域交流センター歩歩路
 11:00)
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大斎節の黙想〈Ⅱ〉

大斎節の黙想〈Ⅱ〉
豹変  〜聖週の出来事から〜


大斎節のクライマックスとなる聖週は「復活前主日」から始まります。英語圏の教会では概ね “Palm Sunday”(枝(棕櫚)の主日)か“Passion Sunday”(受難の主日)です。「復活前主日」という名称は、「来週は復活日です」と、時間の経過や物事の順序を言うのみで、この日に合わすべき焦点、救済史の中で見出すべき意味がぼんやりしてしまうように感じています。次の祈祷所改正ではぜひ「受難の主日/枝(棕櫚)の主日」としていただきたいと思います(余談ですが、もう一つは「降臨節主日」、これも「王なるキリストの主日」として欲しいですね)。
さて、棕櫚とは「ヤシ科シュロ属の常緑高木の総称」(広辞苑)で、まず思い浮かぶのは教会の庭にも植っているうちわのようなかたちのものでしょう。これは日本原産のワジュロという植物です。厳密には二千年前のパレスチナにはないはずですので、混同を避けるためにあえて「枝の主日」という呼び方をするのでしょう。実際にはナツメヤシの系統の枝であったと思われますが、棕櫚が広くヤシ科の植物全般を表す習慣を考えれば「棕櫚の主日」の方がイメージしやすいかもしれません。いずれにしても、棕櫚は古くから勝利を象徴するもので、民はこれを高く掲げて振り、王の凱旋を祝いました。このような習俗に従って、イエスさまは神の都エルサレムに王として歓呼をもって迎えられたのでした。
しかしながら、民の歓喜の熱狂はわずか数日で憎悪へと豹変します。イエスさまを迎えた“ホサナ”の叫びは、“殺せ”、“十字架へつけろ”へと変わるのです。わたしは、それが本当に憎悪からくる叫びであったかには懐疑的です。おそらく本当に憎らしく思っていたのは祭司長や律法学者、ファリサイ派といった民の宗教的・政治的指導者たちであり、民衆もポンテオ・ピラトさえも、そのうねりと高まりに流され、抗することもできなかったのだと思うのです。だとしても、熱狂は人を死に追いやる力を持つものだということです。近年、(自分の)正義という剣を振りかざし、非のある(と決め込んだ)人を徹底的に糾弾する風潮が際立ってきたように思います。実際のところ、それは憂さ晴らしに過ぎません。テレビで悪役に仕立て上げられた女性が自ら命を絶った痛ましい事件も記憶に新しいところです。
わたしたちもまた、そのような人のひとりです。なんと恐ろしいことだろうと、胸が苦しくなります。「救いようがないじゃないか…」と。しかしだからこそ、イエスさまは十字架への道を歩まれたのです。その肩に十字架を担い。重たかったことでしょう。イエスさまは何度も倒れられました。しかしそれでも、イエスさまは歩むことをやめられませんでした。その肩に重く食い込むのはわたしたちの罪です。この大斎節の締めくくり、ことに復活前主日から始まる一週間、豹変する民の姿の中に露わにされるわたしたちの罪と、それゆえにこそある神のみ子イエスさまの十字架の贖いに心を向けて過ごしましょう。そして罪を赦された深くて大きな喜びをもって復活日を迎えましょう。

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月報聖ペテロ巻頭言

おみがき
司祭 エドワード 宇津山 武志

最近建てられる教会では、徐々に希少種になってきた“ハイオルター”。わたくしたちの教会では、建て替えのときに慣れ親しんだ聖堂の雰囲気を極力そのまま引き継いでいこうということで、生き延びました。オルターの奥にはさらに一段高く飾棚が設けられ、中央には十字架と聖櫃(タバナクル)、左右対称に燭台と花瓶が整然と置かれて、聖堂全体を凛とした祈りの空間に引き締めます。これらの祭具は、多くの場合真鍮で整えられます。「真鍮の色は?」と聞かれたら、皆さん間髪を入れずに「金色!」と答えられるでしょう。確かにその通りなのですが、よく磨き込まれた真鍮は少し白味がかった薄めの金色をしています。それが月日とともに徐々に濃い金色へと変わり、ついにはまっ茶色になってしまうのです。
神学校を卒業して、初めてこの教会に遣わされた約20年前、土曜日になるとオルターギルドが念入りに真鍮の祭具を磨き込んでくださっていたのを今でも鮮明に覚えています。毎週磨きますからそんなに見違えるほど綺麗になるわけではありません。しかし日々の信仰の営みが、こうした単純で地道な奉仕に支えられているということを体験の中で学びました。
同じことがわたしたちの信仰についても言えます。ひとたびかたちづくられ、磨き上げられた信仰は、どんな嵐にも耐え、揺るぎなく立ち続けるわけではありません。日々磨き込んでいかなければならないのです。思うに信仰とは、素材としての真鍮を神さまから手渡されるようなものかもしれません。聖書の学び、聖卓の養い、祈り、奉仕、交わり…、これらを通じて、わたしたちは自分の人生に唯一無二の十字架をかたちづくり、さらにそれを磨き続けていく。“求道”から始まったわたしたちの信仰生活は、“究道”の歩みに変えられていく。それを怠ると、わたしたちの足は再び“旧道”へと戻っていってしまうのです。
パウロはコリントの信徒へ宛てた手紙の中でこのように書いています。「神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(Ⅱコリ6:6)。うれしく喜ばしいことであるとともに、畏れ多ささえも憶えますが、パウロはそれを「このような宝を土の器に納めて」いると言い、それが「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるため」だと言うのです(6:7)。ちょっとぶつければ容易に壊れてしまう土の器を、神さまはご自身の栄光を表す道具として用いてくださいます。年齢・体力・能力に関わらず、わたしたちはすべて土の器です。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(6:16)。だからこそ、畏れ多さを超えた喜ばしさがそこに生まれるのです。
「主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
(イザヤ40:31)
さあ、今日も“おみがき”を。
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