静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ巻頭言

みそば はなれず
司祭 エドワード 宇津山 武志

十五年以上一緒に生活してきた愛犬アニーを虹の橋のたもとに見送ってまもなく一年か過ぎようとしています。ペットロスということばもずいぶん一般化しました。リビングにくつろいでいるとそばにやってきてピタッとくっついてスヤスヤと…。その頭を撫でてやっていた静かな日常が突然消え失せ、未だに寂しさに襲われます。茂原時代に子犬で我が家の一員になって藤沢・平塚と、環境が変わったのはストレスだったでしょうが、大好きな家族とはずっと一緒で、散歩をしたり、ボール遊びをしたり、タオルの引っ張りっこで発散したり…、そうして新しい土地での生活に慣れていきました。最後の引っ越しとなった静岡へは、“パパ”と二人っきりの移動。新しい環境への興味よりもどこか不安げで、いつも“パパ”の姿を追いかけて離れなくなっていきました。しばらく前にさすがに綺麗に拭きましたが、わたくしが出入りする庭の掃き出し窓のガラスは、戻ってくるまで外を眺めているものですから、アニーが鼻を擦りつけた跡ですりガラスのように曇っていました。
ボーダーコリーはとても運動量が多く、好奇心旺盛で賢い犬種ですが、静岡に来てからは、老化と糖尿病による体力の衰え、視力も聴力も最後はほんのわずかしか残りませんでした。犬がどれほどの思考をするのかはわかりませんが、自分自身から次々と色々なものが失われ、なぜだか分からず家族とも引き離され、最後には“パパ”しか残らなかったからでしょう。あまりに不憫だったので、出かけるときには必ず自動車の助手席に乗せていくことにしました。若い頃には好奇心爛々の瞳でキョロキョロと外を見ていましたが、最後はいつも“パパ”のそばで安心してスヤスヤといった具合でした。
こんなふうに感傷に浸って思い出していると、「み傍はなれず おらせたまえ」という聖歌の一節が浮かんできました(聖歌521番1節)。今はまだ活動的なわたしは、み傍に憩う時と場所を求めて礼拝や黙想に身を置きます。告白しますが、わたくしだって四六時中イエスさまをみ傍近くに感じて過ごしているわけではありません。何かしているときにはそれに集中しています。それはそれで大切で、決して悪いことではありません。目の前のことに集中して最大の成果を得るように努めるべきです。一方、「この世の栄え」は「目を惑わし」、「誘いの声」が「耳に満ち」るのです(同2節)。この騒々しさの中にあって「静かに聖き み声もて」、誉れを求める心を「鎮めたまえ」と祈ります。そうして「心に騒ぐ 波はなぎて わが主のみ旨 清にうつ」すことができるのです(同3節)。
誉れを求める心ばかりではありません。恐れ、不安、不満、怒り、無力感…、そうしたものが心の中で騒ぐとき、この歌を、この詞を、静かに口ずさんでみましょう。すべてを失っていくアニーは、信仰などという立派なものによらず、“パパのそばにいれば大丈夫”、“パパは裏切らない”という、ただ飼い主への信頼によって、そばにそばにとねがい、最後の日々を過ごしました。
主は、わたしたちをおいて離れてはゆかれません。どうかわたしたちを、「み傍はならず」おらせてください。

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