静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ巻頭言

神さまっているの?
司祭 エドワード 宇津山 武志
「神さまっているの?」
幼い子どもたちからときどきこう聞かれます。目には見えない「神さま」はどこにどうやっているんだろうと、真剣です。こうした問いは、幼子たちに限ったものではありません。ただ、歳を重ねるにしたがって、その問いの中には「神さまなんているわけがない」
という答えがあらかじめ用意されていることが多くなっていきます。ある人は意地悪く、ある人はちょっとした蔑みをもって、「神さまなんていないんだよ」ということを伝えるためにこう問うのです。

「神さまなんていない」。実に説得力のある言葉です。だって目には見えないし、触れもしない。言葉がかすかに聞こえてくるわけでもないし、風が頬を撫でるように感じることもできません。わたしのまわりを探しても、だれも直接会ってきたという人はいません。ときどき会っただの聞いただのという人が現れますが、実に胡散臭いですもの。「神さまなんていない」という人を“ギャフン”と言わせる簡単な答えをわたしたちは持ち合わせていないのです。

「神さまなんていない」世界というのは、裏を返せばみんなが神さまということ。みんなが神さまならいいじゃない…。いえいえ、自分という神さまが人の数だけいるということです。神さまとなった「わたし」は、それぞれが「正しさ」で武装します。「正しさ」というのはひとたび外に顔を出すと、往々にしてごつごつと角張っているものです。その「正しさ」がぶつかり合うのです。国と国、民族・部族の間、宗教の違い、ときに同じ宗教の中でさえ…。自分の外でばかり起こるとは限りません。「わたし」と「あなた」の間で、親しい友との間で、家族の中で、教会の中で…。世の中のすべての悲劇は人が神になった瞬間から起こり始めるのではないかと思います。「人が神になる」とか「人が神の領域を犯す」と聞けば、ちょっと警戒心を感じるかもしれませんが、文明の進歩はある意味、それまでずっと神の領域であり続けてきたことを人間の領域にしようという強い思いに支えられてきたとも言えるものです。だからいつも、わたし自身に起こり得ることなのではないでしょうか。創世記の「堕罪」物語はこのことを伝えています。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」。そんな風に言われたら、わたしも間違いなく引っかかってしまうでしょうね、「それは願ってもないことだ!」って。

クリスマス・シーズンにはことに幼子イエスの姿に心を向けて過ごします。そういえばイエスさまは、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃいました。子どものように、幼子のように、純粋に、素朴に、素直に神さまを信じなさいということなんだなと受け取ってずっと過ごしてきました。でも、飼い葉おけの幼子イエスさまを思いつつ、わたしたちも飼い葉おけに眠る赤ちゃんなんだ、寝返りも打てない、自分で食べ物を口に運ぶこともできない、着替えも排泄も自分では一切できません。目だってよく見えない。「神の国」という手、眼差し、いたわり、やしない、微笑み、愛…。それらのものを受け入れなければ生きていくことなんてできない。そう、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」んだなって。

神さまを持ち出すがゆえの悲しいニュースが伝えられます。「神さま」が平和を壊している、そういう思いにも駆られます。でも、わたしたちが都合よく「持ち出した」神さまは、神さまではないのです。
「神さまなんていない」…。「いない方が平和」? いいえ、そんなことはありません。わたしたちは幼子。神さまのみ手がなければ生きていくことはできないのです。そのとき、そこにこそ神の国は現れます。
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2019年11月17日~12月22日の予定

11月
17(日)聖霊降臨後第23主日(特定28)
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
 司祭、清水聖ヤコブ教会へ
 聖餐式(10:30)・教会委員会
 静岡県ホームミッション(15:00)
18(月)島田伝道所 聖餐式(13:30)
19(火)キリスト教講座(19:00)
22(金)月次逝去者記念聖餐式(10:00)
横浜教区定期教区会(横浜)
23(土)横浜教区定期教区会(横浜)
24(日)降臨節主日(特定29)
 聖餐式(7:30・10:30)
 幼児祝福式(七五三)
 ・収穫感謝の祈り
25(月)2020年度 教会委員・
 教区会信徒代議員選挙公示
(12月25日投票締切)
26(火)司祭:静岡英和女学院中学校
・高等学校 創立記念日・全校修養会
30(土)聖アンデレ日 聖餐式(10:00)
12月
1(日)降臨節第一主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 愛餐会・教会委員会(13:15)
4(水)静岡県婦人会静想日
(清水聖ヤコブ教会 10:30)
7(土)司祭:立教大学大学院キリスト教学研究科
 創立10周年記念行事
 清水聖ヤコブ教会クリスマスコンサート
8(日)降臨節第二主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 愛餐会・婦人会例会(13:00)
10(火)常置委員会(横浜)
11(水)使徒団の日(横浜)
12(木)関西学院同窓会静岡支部
    クリスマス会
15(日)降臨節第三主日
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
清水聖ヤコブ教会聖餐式(10:30)
・教会委員会
19(木)司祭:会議(管区事務所)
*変更の場合あり
21(土)使徒聖トマス日
 聖餐式(10:00)
22(日)降臨節第四主日
 聖餐式(7:30・10:30)
清水聖ヤコブ教会キャロル礼拝(18:00)
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月報聖ペテロ巻頭言

降臨節によせて
司祭 エドワード 宇津山 武志
「救いの道を備えるために、神は預言者たちを遣わされた」
「わたしたちがその言葉を心に留めるとき、贖い主イエス・キリストの来臨を、喜びをもって迎えることができる」
降臨節第2主日の特祷から)

降臨節の日々の歩みの中で、真っ先に思い浮かぶ預言者と言えばイザヤでしょうか。イザヤは、救い主の来臨によって成し遂げられる世界の姿をこう示しています。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」
今日、イザヤの示す世界は、まさに「そんなバカな」と、誰もが思う世界です。「おとぎ話や絵本の世界ではないか」、「こんなのあり得ない…」と、現実の世界との乖離、そこで日々繰り返される悲劇を前に、そうつぶやくほかない…。しかし、これは神がその声に耳を傾けよと仰せになった預言者の口から語られた言葉、「神の約束」です。

旧約時代から、神がお示しになるのは世界と歴史には「始まり」と「終わり」があるということです。始まりとは、神と人とが親しい交わりのうちに歩んでいたエデンの園、すべてのものは極めてよかった、と神がおっしゃった完全な調和のうちにある世界です。これも現実の世界という視点から見たら、あり得ない世界と片付けられてしまうものなのかもしれません。しかし、聖書の語るこの「始まり」との対比のうちに、「終わり」もまた、すべての敵意が滅ぼされ、すべてのものが調和のうちに生きる世界、イザヤの示す世界です。はじめの調和は人間の背きによって崩されました。人間の背きによって、罪によって、世界はあるべき姿を失ってしまったのです。もう一度原初の調和へと向かうために、神はその大能によって―あのノアの洪水のときのように―すべてを滅ぼしつくして新たな創造をしようとはなさいません。神ご自身の形に作り、ご自身と交わるための言葉と智恵とを授けた人間、知恵にも力にも限りある人間をそのための器として用いようと決心されたのです。神が創られたこの世界の中で、終わりの調和へと向かって、人間は神の協力者として生きることが求められています。

歴史の中で、この地上で繰り返される悲劇は、人が神の深い愛を忘れ、あるいは人の思いを神の思いにすりかえて起こしてしまう、神の名のもとに神のみ思いとまったくかけ離れたところへと向かう人間の罪によって起こされるものです。だからこそわたしたちはこのように祈らなければなりません。「…あなたは悔い改めを宣べ、救いの道を備えるため、預言者たちを遣わされました。その警告を心に留め、罪を捨てる恵みをわたしたちに与え、贖い主イエス・キリストの来臨を、喜びをもって迎えることができますように…」

キリストの到来に先立つ最後の預言者、洗礼者ヨハネの使命は、「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」することでした。キリストの再臨に向かう時代を歩むわたしたちの使命もまた、「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」すること。そのためにこそ、わたしたちは聖霊の七つの賜物を封印されました。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。エッサイの根より生い出でたる若枝、イエスの上に留まった同じ霊の賜物です。

降臨・再臨への備えのときと言われるこの期節、わたしたちのなすべきは、普段のあわただしい生活の中で鈍麻している、この霊の賜物への感性をもう一度新たにすることといえるかもしれません。床に就く前のわずかな時間、“忙しい季節”だからこそ、一日の終わりの短い黙想のときをいつにもまして大切に過ごしてまいりましょう。思い煩い、心配ごと、不平不満ばかりがあふれ出てくるかもしれません。でも、自分の心の中の思いを神さまにお話いたしましょう。そして一方的にしゃべるばかりでなく、神が救いの歴史の中でしてくださったことに思いを向け、それに対する人の応答に目を向け、聖書をとおして語られる神の声に耳を傾けましょう。イエス・キリストの来臨を、喜びをもって待ち望む者に変えられますように。
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2019年10月26日~11月17日の予定

10月
26( 土) 聖堂・会館掃除(10:00)
27( 日) 聖霊降臨後第20主日(特定25)
 聖餐式(7:30・10:30)

11月
1( 金) 諸聖徒日 
聖餐式・墓参(11:00)
2(土) 聖堂・会館掃除(10:00)
3(日)聖霊降臨後第21主日(特定26)
聖餐式(7:30・10:30)
愛餐会・教会委員会(13:15)
4(月)文化の日
信徒納骨式(多磨霊園
9(土)聖堂・会館掃除(10:00)
10(日)聖霊降臨後第22主日(特定27)
聖餐式(7:30・10:30)
愛餐会・婦人会例会(13:00)
12(火) 司祭、会議
(管区事務所)・常置委員会(横浜)
16(土)聖堂・会館掃除(10:00)
17(日)聖霊降臨後第23主日(特定28)
聖餐式(7:30)
み言葉の礼拝(10:30)
清水聖ヤコブ教会聖餐式(10:30)
・愛餐会・教会委員会
ホームミッション委員会(15:30)

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月報聖ペテロ巻頭言

ものさし
司祭 エドワード 宇津山 武志
物差しと定規の違いって、すぐに答えられますか?物差しは長さを図るための道具、定規は一定の線を引くための道具です。実際にはわたしたちは両方の機能を併せ持った道具を使っていますから、その違いをあまり意識することはありません。

さて、物差しです。人が物の長さを測るようになった歴史は古く、単純に言えば、住まいを定めずに自然界に存在するものを狩猟・採取して生活していた時代から、一所に留まって動植物を育てて生活するようになった時代、つまり遊牧生活から定住生活に移行した時代に遡ります。棒を適当に組み合わせた天幕に生活していた人々が、より長持ちする家を作ります。いざ家を作ってみると、一定の間隔に柱を立ててきちんと作った方が雨風に強い家ができることがわかったのです。こうして物差しが出来上がって来たようです。

長さの単位は、文明によって異なりますが、メソポタミア文明シュメール人は、物では大麦や葦、棒など、人の体では指、前腕などを一つの単位としていたそうです。東アジアでは親指と中指を広げたときの長さとか、中指から手首までの長さなどが単位として用いられたのではないかと考えられているそうです。そういうことが「寸・尺」、「フィート」など単位を表す言葉にも残っているのでしょう。

この物差し(長さの単位)を用いることによって何が可能になるか。きちんとした丈夫な家が建つとは申しましたが、もう少し一般化すると、人と人が、あるものの姿について共通のイメージを描くことができるということではないでしょうか。「さっき、とても大きな象にあったぞ」、「どれくらいだ?」、「それはそれは大きいんだ」。さて、あなたはどれくらいの象を思い描くでしょう。それによって、逃げるべきか、追い払うべきかも変わってきます。たいしたことないだろうと高をくくっていたら巨大で一目散に逃げだしたなんてことが起こります。「蔵を作りたいんだ」、「どれくらいの蔵だ?」、「間口は3間、奥行きは6間、高さも3間くらいは欲しいな」、「よし分かった、じゃあ作ろう」。これなら大きな間違いは起こりませんね。
物差しにはまた別の意味があります。「物事の評価や判断のよりどころとなるもの」という意味です。自分の指や手、歩幅を物差しにしていた時代があったと言いますが、まさに「自分の物差し」ですね。自分の物差しと言えば、良い意味にも悪い意味にも使われます。「自分の物差しを持ちなさい」と言えば、テレビでそう言っていたからとか、○○がそう言うからとか、両親・会社がそう言うからという理由で、善悪や右左の判断をしてはいけない、しっかりとあなたがあなたの判断をしなさいということになります。逆に、「それはあなたの物差しでしょ」と言えば、自分の善悪、自分の価値基準で多種多様であるはずの相手の考え方や生き方、決断といったものを評価してしまうことへの批判となります。

わたしたち、指と指の間、一歩一歩の歩幅がそれぞれみな違うように、「わたしの物差し」はとてもあいまいです。特に今の時代、どちらに行くべきなのか、とても難しい問題が山のようにわたしたちに突き付けられます。わたしたちの物差しが、「善はこちら」と判断するとき、それは同時に「悪」を作り出すのです。そして、一たび「絶対的な善」が決まると、その善以外がすべて悪になってしまいがちです。そこに生ずるのは、対立、反目、侮蔑、熱狂…、そこに神さまのお喜びになることは生まれません。

地球の直径を測るのにノギスを持ち出したり、米粒の大きさを測るのに長い巻き尺を持ち出したり、それが人間のような気がします。神さまの物差しはどんなでしょう。「お前の物差しで、わたしの愛ははかれないよ」とイエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。
神さま、あなたの物差しの前に、わたしが謙虚になることができますように。
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