静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL・FAX 054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

2018年11月18日~12月16日の予定

<11月>
18(日)聖霊降臨後第26主日(特定28)
 聖餐式(7:30)
み言葉の礼拝(10:30)
司祭、清水聖ヤコブ教会へ
 聖餐式(10:30)
昼食、教会委員会
静岡県ホームミッション委員会
(14:30)
22(木)横浜教区定期教区会
23(金)横浜教区定期教区会
25(日)降臨節主日(特定29)
 聖餐式(7:30・10:30)
島田伝道所 聖餐式
(14:00 地域交流センター歩歩路)
30(金)使徒聖アンデレ日
月次逝去者記念聖餐式(10:00)<12月>

2(日)降臨節第1主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 愛餐会・教会委員会(13:15)
5(水)静岡県婦人会静想日
 (11:00 伊豆聖マリヤ教会)
9(日)降臨節第2主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 愛餐会・婦人会例会
11(火)(常置委員会(予定))
13(木)計画中:黙想と祈りの集い
  (18:30)
16(日)降臨節第3主日
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
司祭、清水聖ヤコブ教会へ
 聖餐式(10:30)
 昼食、教会委員会

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クリスマス関連行事の日程

12月2日(日)降臨節第1主日
  聖餐式(7:30、10:30)
  教会委員会
12月9日(日)降臨節第2主日
  聖餐式(7:30、10:30)
  婦人会例会
12月13日 (木)黙想と祈りの集い
  (18:30)計画中
12月16日(日)降臨節第3主日
  聖餐式(7:30)
  み言葉の礼拝(10:30)
  大掃除
12月23日(日)降臨節第4主日
  聖餐式(7:30、10:30)
清水キャンドル礼拝( 18:00)
12月24日( 月・振替)
イブ礼拝(18:00)
第一聖餐式(23:00)
12月25日( 火)降誕日
  第二聖餐式(7:30)
  第三聖餐式(10:30)
クリスマス祝会
12月26日(水)
  最初の殉教者聖ステパノ日
  聖餐式(10:00)
12月27日(木)福音記者聖ヨハネ
  聖餐式(10:00)
12月28日(金)聖なる幼子の日
 聖餐式(10:00)
12月30日 (日)降誕後第一主日
 聖餐式(7:30、10:30)
1月1日(元旦)主イエス命名の日
 聖餐式(11:00)
1月6日(日)顕現日
 聖餐式(7:30、10:30)
新旧合同教会委員会


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月報「聖ペテロ」11月号 巻頭言

民無信不立(民、信無くんば立たず)

キリスト者の視点から〜

牧師 司祭 エドワード 宇津山 武志
最近大きな仕事がようやくひと段落したので、少しだけ開放感に浸りながら、書店でなんとなく目に止まった「論語」をちょとだけ“かじって”みました。もちろん漢文なんて読めませんから、解説付きのやさしい現代語版です。表題に掲げたのはその一つ。漢字だらけですが、入力ミスではありません。書き下すと、「民、信無くんば立たず。」となります。
弟子の子貢が孔子に政(まつりごと)について尋ねました。すると孔子はこう答えます。「政に必要なのは、第一に食生活の充実を図ること。第二に軍備を整えること。第三に民の信頼を得ること。」子貢はさらに問いました。この三つのうちで止むを得ず一つを諦めるとしたらどれか。孔子は即座に「兵だ」と答えます。子貢はさらに、もう一つ捨てるとすると問うと、こういう答えが返ってきました。「食料がなければ皆死に絶える。しかし、死はいずれ誰にでも訪れるもの。最も大事なのは信頼で、信頼がなければ全てが崩れ去ってしまう。」
これを読んでいて、「あなたの信仰があなたを救った」というイエスさまの癒しの物語が思い出されました。孔子が聞いたら、そういう意味で言ったのではないと怒られるでしょうが、ただ神の憐れみを信じて叫ぶ人に神は応え、癒される。そしてそれを通して人は立ち上がる。「民は、信仰によって立つ」のだなと。ここでいう「立つ」とは、単に立って歩き回ることではなく、神とつながること、神との関わりの中で、それを自覚して生き始めることと言い換えることができるでしょうか。
創造のはじめ、主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れ、人は生きるものとなりました。今の営みのすべてが神を原動力としていることに気づくとき、今向ける眼差し、今語りかける言葉、今差し出す手、今踏み出す一歩の意味が一変します。イエスさまは言われます「立ち上がって、行きなさい。」喜びと感謝をもって行きましょう、主とともに

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2018年10月28日~11月13日の予定

<10月> 
28(日)聖霊降臨後第23主日
   特定25)
   聖餐式(7:30・10:30)
29(月)使徒聖シモン・使徒聖ユダ日
 〔聖餐式はありません〕

11月
1(木)諸聖徒日
  聖餐式(11:00)
墓参(沓谷教会墓地)
3(土)聖堂・会館掃除(10:00)
4(日)聖霊降臨後第24主日
 (特定26)
  聖餐式(7:30・10:30)
  愛餐会・教会委員会
5(月)司祭:墓参
10(土)YWCA集会
11(日)聖霊降臨後第25主日
(特定27)
 聖餐式(7:30・10:30)
幼児祝福式(七五三)
愛餐会・婦人会例会
13( 火) 常置委員会
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今月の聖書

二の次
牧師 司祭 エドワード 宇津山 武志

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタイ22:38)
この問いにイエスさまは、全身全霊をもって神を愛し、隣人を愛することだとお答えになりました。この問答が交わされたのはご受難を目前にしたエルサレム、問いを発したのは律法の専門家、すなわち、本当に知りたいという思いからではなく、なんとかしてあの忌々しい男を陥れてやろう、試してやろうという意図をもってなされたものでした。
そうした文脈を少し離れ、今日はこの問いに集中してみたいと思います。戒め、掟といえばすぐに十戒が思い浮かびますが、当時律法は、具体的な行動を規定する細則まで含めると優に600を超えていたそうです。神のご意志に忠実に生きようと心がけていた真面目な人なら、「この中でどれが一番大切なんだろう」と、その根幹にあるものを知りたいと、ふと考え込むのは自然なことのように思います。わたしたちも日常生活の中で、さまざまな課題に囲まれて生きています。宿題そっちのけで遊びに夢中になろうものなら「優先順位をつけなさい」と、子どもの頃から聞かされてきましたから常識のように染み込んでいます。学校や会社といった組織の中で、あるいは家庭生活、個人としての生活を営んでいく上で、また一日や一週間といった短いサイクルから、五年十年・生涯といった長いサイクルで、目標を定め優先順位をつけて臨んでいくのはとても大切なことです。イエスさまの時代、神の祝福、天の幸いという目的のために、律法は大切な道具であり、その正しい用い方をわきまえることは、宗教指導者にとって必要不可欠なことでした。そしてそれ自体、なんら間違ってもいないでしょう。しかし彼らは人との関わりにまでそれを持ち込んでしまいました。一番大事なのは自分の救い、次に自分の救いのために一生懸命律法に沿った生活をしようとする人々、たとえ職業的な制約であれ、律法を守らずに生活する人々は二の次、病を負った人、障害に苦しむ人などは、罪が招いたものですからさらにその次、「地の民」として遠ざけておかなければならない存在でした。こうお聞きになったら、「なんてひどい!」と思われるでしょうが、もともと“よい(と信じていた)目的”のために始まったことですので、厄介です。イエスさまはそこに切り込んでいかれました。神さまにとって“二の次”なんてないんだということです。「地の民」を弟子に召し出し、食事をともにし、病や障害に苦しむ人に歩み寄り、膝をかがめて手を差し伸べて癒されたのです。
神さまのため、イエスさまのため、教会・教区のためと、一生懸命なわたしたちは細心の注意を払わなければなりません。知らず識らずのうちに、“よい”ことのなかで、わたしたちはイエスさまが大切になさったものを二の次にしてしまいます。それはわたしたちが聖書を読まないからでしょうか、ちゃんとお祈りをしないからでしょうか?そうではありません。ユダヤ教の宗教指導者たちは人一倍聖書を学び祈っていた人々です。悪魔は巧妙に甘くて美味しい果実をわたしたちの目の前に差し出します。それを頬張るわたしたちを見て、悪魔はニヤリと笑うのです。
悪魔に地団駄踏ませてやりたいと思うのですが、どうしたものでしょう…。救いの歴史の中で、神様は時に一人のカリスマ的指導者を召し出して大きな働きをなさいますが、多くの場合、聖パウロがコリントの信徒に宛てた手紙の中で「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と記しているように、共同体を通じて小さなともしびを一つ二つと灯していくのが精一杯です。でもそれこそがわたしたちの務め。「愚かと誤り、偏りと高ぶりを除き」(諸祈祷「教区会、総会のため」)、謙虚に聞き合うところに「神の声」はようやく届くのだと思います。
この原稿を書いていて、一つのことが頭に浮かびました。それは律法とわたしたち人類とは瓜二つなのではないかということです。神さまの救いの道具であることを使命としつつ、その目的を離れ、裁きの道具となってしまうこと。悪魔の喜ぶ顔ではなく、イエスさまの喜ぶ顔を願い求め、一緒に歩んでまいりましょう。

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