静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ3月号巻頭言

本当に、この人は神の子だった
司祭 エドワード 宇津山武志

今年、主日聖餐式において、わたしたちはマルコによる福音書を中心に、神の国の良き知らせに耳を傾け、神のみ心を探ね、歩んでいます。マルコはその福音書の冒頭で「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と筆を起こしますが、そこに記される主イエスさまのお姿は、神の子としての偉大さよりも、人として歩まれた生の弱さが際立ちます。
ガリラヤのナザレからヨルダン川ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で四十日四十夜にわたるサタンの試みを退け、ガリラヤに戻り、最初の弟子たちを召して福音宣教の旅路を歩みはじめてからというもの、主イエスは大いなる神の力をもって汚れた霊に取り憑かれた人、多くの病人を癒し、方々の町や村を巡り歩いて神の国の福音を力強く宣べ伝えました。人々はその言葉と業に大いに驚き、湧き立ち、励まされ、歓喜しました。一方このような成果に対して、主の反応はどこか煮え切らないというか、喜びをもってそれに呼応していない印象を感じます。主は人々の反応とご自身の思い、天の父なる神のみ思いの間に埋めようのない溝、すれ違いを覚えておられたに違いありません。事実、ずっと一緒に行動していた弟子たちですら「誰が一番偉い」だのなんだのと、主の真意を理解していなかったのですから。さらに敵対者に至っては「あいつは悪魔に取り憑かれている」とさえ思い罵倒していたのです。ちょっと極端な言い方ですが、主イエスさまの真のお姿、「イエスが神の子である」ということは、その力ある業(しるし)によっては誰も理解できなかったということでしょう。
主イエスが「ほむべき方の子、メシア」であるとはっきりと宣言されたのは、神を侮辱する者として捕えられ引き出された裁判の席においてでした。それは権力者の更なる憎悪を招き、やはりあの男は死刑にされなければならないという結論に至りました。弟子たちに見捨てられ、人々には唾を吐きかけられ、殴られ、服を剥ぎ取られ…、愚弄のかぎりを尽くされ、主は十字架の上に地上のご生涯を無惨にも奪われました。それは人の目に、そして歴史の中で繰り返される反逆者の無力、屈辱、敗北でした。ところが、この出来事を目撃した一人の人がこう口にします。「本当に、この人は神の子だった」、ローマ軍の百人隊長です。アブラハムの子孫を自認する人々が考えていた神の救いの系譜、救いの歴史からまったく無関係の異邦人が主イエスの本質を遂に正しく言葉にしたのです。そのことは起こったのこそ、主イエスが十字架に傷ましく息を引き取られたときでした。そのとき、神と人とを遮っていた神殿の垂れ幕は真っ二つに裂けました。十字架の上に広げられた主イエスのみ腕は、すべての人を神のもとに招き、包みます。十字架にこそ、遂に神の力が顕わに示されたのです。ハレルヤ。
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2024年1、2月の予定

1月の予定
1( 月)主イエス命名の日
 聖餐式(11:00)
6(土)顕現日 聖餐式(10:00)
7(日)顕現後第1主日・主イエス洗礼の日
 み言葉の礼拝(10:30)
教会委員会(12:45)
14(日) 顕現後第2主日
 み言葉の礼拝(10:30)
 ぶどうの会(礼拝後)
21(日) 顕現後第3主日
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
25(木) 使徒パウロ回心日
 聖餐式(10:00)
26(金) 1月度逝去者記念聖餐式
(10:00)
28(日) 顕現後第4主日
 聖餐式(7:30・10:30)
堅信受領者総会(礼拝後)

2月の予定
2 (金) 被献日
 聖餐式(10:00)
4 (日) 顕現後第5主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 教会委員会(12:45)
11 (日) 大斎節前主日 
 聖餐式(7:30・10:30)
 ぶどうの会「お楽しみ会」(礼拝後)
14 (水) 大斎始日(10:00)
16(金) 2月度 逝去者記念聖餐式(10:00)
18 (日) 大斎節第1主日
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
【清水】聖餐式(10:30)・教会委員会
24 (土) 使徒聖マッテヤ日
 聖餐式(10:00)
25 (日) 大斎節第2主日
 聖餐式(7:30・10:30)
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月報聖ペテロ巻頭言1月号

被献日によせて
司祭 エドワード 宇津山武志

12月25日の「降誕日」に始まる祝祭は、2月2日の「被献日」をもって一つの区切りを迎えます。
レビ記12章には、出産にまつわる様々な規定がまとめられています。出産は出血を伴いますので、男児を出産したとき、産婦は七日の間汚れています。そして八日目に割礼と命名が行われます。これが1月1日の以前は受割礼日と呼ばれていた「主イエス命名の日」です。産婦は出血の汚れが清まるまでさらに33日間家に留まり、その清めの期間を終えて“お宮参り”にいきます。ユダヤ教では、人間であれ家畜であれ、その家に初めて生まれた子は神さまに献げなければなりませんでした(出エジプト13:2)。アブラハムによるイサクの奉献の故事にも思いが至りますが、その本意は、恵みが神さまからいただいたものであるということの確認、最も大切なものを神さまに献げることを通して神への感謝と信頼を改めて認識することにありました。実際には、初子の身代わりとして、小羊一匹、あるいは家鳩か山鳩二羽を献げ物としました。このように、被献日には二つの意味があります。一つは産婦(マリア)の清め、もう一つは初子(イエス)の奉献です。
さて、律法にしたがって神殿に詣でた聖家族に思いがけないことが起こりました。シメオンとアンナという高齢の預言者が彼らを喜び迎えたのです。
シメオンは「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けて」いました。「シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:25〜32)。夕の礼拝で毎日に唱える「シメオンの賛歌」です。
この日、両親の目的は、彼らに幼子が与えられたことを神に感謝し、その生涯を神に委ねるとともに、鳩を生け贄として献げ、愛する幼子の命を買い戻すことでした。しかし神は、シメオンの口を通して、この幼子こそが万民の救いとしての生け贄であり、そのために神はこの幼子を清めて人類の手にお返しになったのです。わたしたちは聖餐式の度に「自らを献げて」(懺悔の呼びかけの言葉)神の清めをいただき、救いの器としてこの世へと遣わされていくのです。

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2023年12月の予定

3(日)降臨節第1主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 教会委員会(12:45)
10(日)降臨節第2主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 ぶどうの会(礼拝後)
 大掃除
19(日)降臨節第3主日
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
21(木)使徒聖トマス日
 聖餐式(10:00)
22(金)12月度逝去者記念聖餐式
(10:00)
24(日)降臨節第4主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 降誕日前夕の礼拝(18:00)
 降誕日 聖餐式①(22:00)
25(月)降誕日
 降誕日 聖餐式②(7:30)
 降誕日 聖餐式③(10:00 祝会)
26(火)最初の殉教者性ステパノ日
 聖餐式(10:00)
27(水)福音記者使徒ヨハネ
 聖餐式(10:00)
28(木)聖なる幼子の日
 聖餐式(10:00)
31(日)降誕後第1主日
 聖餐式(7:30・幼児祝福式10:30)
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月報聖ペテロ12月号巻頭言

あなたの言葉はわたしの足のともし火
わたしの道の光
司祭 エドワード 宇津山武志

聖職の道を歩み始めて約四半世紀、この間に社会も教会も大きく変化しました。司祭に按手されたときには「ああ、定年まで40年もあるんだな…」と、長いなという印象で受け止めていたのですが、その待ち遠しい定年まであと12年、登山で言えば七合目まで来てしまいました。
この四半世紀の変化の中で、自分もまた変化してきました。ここに至り(この歳になって)、改めて思うこと、心の真ん中に座っているのは、「あなたの言葉はわたしの足のともし火 わたしの道の光」という詩編の言葉です(119:105、祈祷書版)。神のみ言葉こそが、わたしの足のともし火であり、行く道の光である。わたしの足をつまずきから守り、行くべき道を示してくださるのです。言い換えれば、わたしが帰るべき場所、人生の旅路の力はみ言葉=聖書にあるということ。何を当たり前のことをと笑われるかもしれませんが、み言葉に聞き従っているようで、実はみ言葉を自分の思いに従わせているようなことは、自分を顧みてもしばしば起こっているように思います。
わたしたちは聖書を通して、“イエス”という、今から約2000年前にユダヤパレスチナ地方で生きた人の人生と言葉に触れます。それが文字化されるときに、当然記した人のフィルターがかかります。それを2000年を経た遠い日本の地で読むときにまた、読み手の解釈が加わります。読み手は話し手の言葉に、意識無意識の別なく、自分の思いを読み込み、結果色々な色と飾りが施され、話し手の思いとはかけ離れたものになっていってしまうのです。主イエスご自身が、そのことを経験なさいました。自分たちの思いと違うと気づいたとき、群衆の熱狂は敵意と殺意に容易に変わったのです。
聖職に按手され、黒いクラージーシャツを着てなんとなく喜んでいたのを感じ取っておられたのでしょう。先輩の司祭がこう話しかけられました。「聖職がなんでこんな黒い服を着るか分かる?」。答えに窮していると、「黒は着ている人の色を全部消してしまうんだよ」とニヤリ。“お前が伝えるべきはキリストの福音であって、お前じゃないんだよ”と、言葉の奥にそんなアドバイスを聞き取りました。これは聖職だけに求められる“在りよう”ではありません。すべてのキリスト信徒がそう生きていけるように、聖職は象徴的にそのことを示すのです。
ガリラヤの小さな村ナザレで、まだ少女だったマリアは天使ガブリエルの受胎告知に接し、「お言葉通りこの身になりますように」と、神のご意志を受諾し、神の命を宿し、この世にあらしめました。
わたしたちもマリアの業、み言葉を受け入れ、神の命をその身に宿し、いたわり育て、神の命、一隅を照らすまことの光としてこの世に送り届けるようにと召されているのです。
しもべは聞きます、主よお話しください。
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