静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ巻頭言

ものさし
司祭 エドワード 宇津山 武志
物差しと定規の違いって、すぐに答えられますか?物差しは長さを図るための道具、定規は一定の線を引くための道具です。実際にはわたしたちは両方の機能を併せ持った道具を使っていますから、その違いをあまり意識することはありません。

さて、物差しです。人が物の長さを測るようになった歴史は古く、単純に言えば、住まいを定めずに自然界に存在するものを狩猟・採取して生活していた時代から、一所に留まって動植物を育てて生活するようになった時代、つまり遊牧生活から定住生活に移行した時代に遡ります。棒を適当に組み合わせた天幕に生活していた人々が、より長持ちする家を作ります。いざ家を作ってみると、一定の間隔に柱を立ててきちんと作った方が雨風に強い家ができることがわかったのです。こうして物差しが出来上がって来たようです。

長さの単位は、文明によって異なりますが、メソポタミア文明シュメール人は、物では大麦や葦、棒など、人の体では指、前腕などを一つの単位としていたそうです。東アジアでは親指と中指を広げたときの長さとか、中指から手首までの長さなどが単位として用いられたのではないかと考えられているそうです。そういうことが「寸・尺」、「フィート」など単位を表す言葉にも残っているのでしょう。

この物差し(長さの単位)を用いることによって何が可能になるか。きちんとした丈夫な家が建つとは申しましたが、もう少し一般化すると、人と人が、あるものの姿について共通のイメージを描くことができるということではないでしょうか。「さっき、とても大きな象にあったぞ」、「どれくらいだ?」、「それはそれは大きいんだ」。さて、あなたはどれくらいの象を思い描くでしょう。それによって、逃げるべきか、追い払うべきかも変わってきます。たいしたことないだろうと高をくくっていたら巨大で一目散に逃げだしたなんてことが起こります。「蔵を作りたいんだ」、「どれくらいの蔵だ?」、「間口は3間、奥行きは6間、高さも3間くらいは欲しいな」、「よし分かった、じゃあ作ろう」。これなら大きな間違いは起こりませんね。
物差しにはまた別の意味があります。「物事の評価や判断のよりどころとなるもの」という意味です。自分の指や手、歩幅を物差しにしていた時代があったと言いますが、まさに「自分の物差し」ですね。自分の物差しと言えば、良い意味にも悪い意味にも使われます。「自分の物差しを持ちなさい」と言えば、テレビでそう言っていたからとか、○○がそう言うからとか、両親・会社がそう言うからという理由で、善悪や右左の判断をしてはいけない、しっかりとあなたがあなたの判断をしなさいということになります。逆に、「それはあなたの物差しでしょ」と言えば、自分の善悪、自分の価値基準で多種多様であるはずの相手の考え方や生き方、決断といったものを評価してしまうことへの批判となります。

わたしたち、指と指の間、一歩一歩の歩幅がそれぞれみな違うように、「わたしの物差し」はとてもあいまいです。特に今の時代、どちらに行くべきなのか、とても難しい問題が山のようにわたしたちに突き付けられます。わたしたちの物差しが、「善はこちら」と判断するとき、それは同時に「悪」を作り出すのです。そして、一たび「絶対的な善」が決まると、その善以外がすべて悪になってしまいがちです。そこに生ずるのは、対立、反目、侮蔑、熱狂…、そこに神さまのお喜びになることは生まれません。

地球の直径を測るのにノギスを持ち出したり、米粒の大きさを測るのに長い巻き尺を持ち出したり、それが人間のような気がします。神さまの物差しはどんなでしょう。「お前の物差しで、わたしの愛ははかれないよ」とイエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。
神さま、あなたの物差しの前に、わたしが謙虚になることができますように。
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