静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

主日のみ言葉 聖霊降臨後第24主日(特定27)

聖霊降臨後第24主日(特定27)
特祷
全能の神よ、何ものもあなたの支配に逆らうことはできません。どうかこの世の変動の中においても、常にみ国の到来とみ心の成就を望み、確かな信仰をもってひたすら主に仕えさせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
旧約聖書 列王記上 17:8〜16
使 徒 書 ヘブライ人への手紙 9:24〜28
福 音 書 マルコによる福音書 12:38〜44
お手許にに聖書・聖書日課がなくても、インターネットに接続できる環境から「ユーバージョン」(bible.com)などで読むことが可能です。
今日のみことばから
本日の旧約聖書福音書、ともに一人の女性が主人公として取り上げられています。旧約ではエリヤを養う女性、福音書では神殿に参り、生活費のすべてを賽銭箱に投ずる女性です。この二人の女性に共通するのは、「やもめ」であるということ、そして「貧しさ」、明日の食べ物にも事欠く赤貧ともいえる貧しさです。
エリヤは旧約を代表する預言者福音書に記されたイエスさまの変容の物語、高い山でまばゆい光の中に現れてイエスさまと語り合った旧約を代表する二人の人物「モーセとエリヤ」、このエリヤです。エリヤは「サレプタに行きそこに住め。ひとりのやもめに命じて、そこであなたを養わせる」という神の言葉に促されてサレプタに赴き、主の言葉どおり薪を拾うやもめに声をかけます。「わたしに水を飲ませて欲しい」、(ここでは水が貴重品であったということを念頭に置かなければなりません。蛇口をひねれば美味しい水が出てくるのとは訳が違います)。さらに「パンも一切れ」と…。やもめはエリヤが神からの特別な何かを受けた人だということをその言葉からすぐに感じ取ったのでしょう。壷に残る最後の小麦粉です。その小麦粉でパンを焼き、エリヤに差し出しました。もう自分たちの口に入るものはないということです。夫に先立たれ、一人の息子とともに生きていかなければならない過酷な運命を背負うこの親子は飢え死にを待つばかり。通りすがりのこの神の人に、まさに「命を差し出す」に等しい行為でした。
福音書に描写されるやもめ、彼女が賽銭箱に投じたのはレプトン銅貨二枚、すなわち1クァドランスでした。聖書にはわたしたちに馴染みのない当時の距離や目方や通過の単位がたくさん出てまいります。通貨の単位で言いますと、まず思い浮かぶのは「デナリオン」、これはローマの銀貨で、1デナリオンは「一日の賃金」に当たります。「ぶどう園で働く農夫」のたとえで主人が農夫に約束した賃金がこの1デナリオンでした。次に「アサリオン」、これは1デナリオンの16分の1。神殿の境内で献げものように売られていた雀二羽が1アサリオンでした。仮に分かりやすく一日の賃金を1万円とすると、1アサリオンは625円になります。そして「クァドランス」、これは1デナリオンの64分の1、先ほどの計算に当てはめますと150円ちょっとということになります。これがやもめが投じた賽銭。単純に今の貨幣価値の150円と計算してしまうのは適当ではありませんが、ある程度のヒントにはなりそうです。注意しなければならないのは、これが彼女の持っているすべて、生活費のすべてであったということです。普通の労働者が一日の労働で得られる金額のわずか64分の1しかなかった。サレプタのやもめ同様、彼女もまた、命をつなぐこのわずかな持ち物のすべてを神に献げたのでした。
エスさまは彼女を見てこうおっしゃっています。「この人は、乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れた…」、この「生活費」という言葉、こう聞きますと明らかに「お金」をイメージしますが、生活費と訳されたギリシア語は「ビオス」と言います。これは「生計、生活費、財産」という意味があるのと同時に、元来「人生、生涯、この世における生活」を表わします。「エビオス」という名前の薬があります。バイオリズム、バイオテクノロジーのバイオもこのビオスから来た言葉、「生命」を意味する言葉です。彼女が投げ入れたビオスとは、命そのものであったという理解を深めることができるでしょう。
壺に残った最後の糧、手のひらに握りしめられた最後のビオスを、この二人の女性は神の前に手放しました。わたしたちが実生活の中でこのことを実感するのはなかなか困難です。わたしたちが日々唱える「主の祈り」、わたしたちは「日ごとの糧を今日もお与えください」と祈っていますが、今日の糧を本当に神に祈っているかと自問したら、ちょっと自信がなくなるのではないだろうか…。
気をつけなければいけないのは、今日の物語から、手放せば与えられると読み取るべきではないということです。たしかに、サレプタの女性はエリヤの言葉通りにしたことを通して、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」。一方、神殿にすべてを献げた女性のその後について福音書は語っていません。彼女たちが手放して手に入れたのは、神との繋がりの中にある命。彼女たちは凧揚げをしていて、その糸を手放して新しい凧をいただいたのではありません。むしろ彼女たちが凧なのであって、その糸を神の手に委ねた。
文明の発達した現代は、神を見失ってしまった時代というふうに表現できるかもしれません。見つけたいのに見つけられないという人もいるでしょうが、必要ないという人もいるでしょう。糸の切れた凧はどこかに吹き飛ばされてコントロールを失って地に落ちる。凧は糸が見えますから、切れたらまずいとすぐに気づくこともできるでしょう。ドローンで飛んでいると風まかせではなく、自分ですべてコントロールして飛んでいる気になります。でも、見えないデジタル信号でつながっているわけです。
神と繋がっている、そこに命がある。わたしたちが喜ぶべきは、感謝すべきは、そして伝えるべきはそこにあります。イエスさまの時代の宗教指導者たちは、人と神との繋がりを切ることに熱心でした。わたしたちは繋いでくださったイエスさまに感謝し喜びたい。そしてこの喜ばしい知らせをこの時代、この世界に伝えるお手伝いを精一杯、わたしたちのビオスを献げていきたいと思います。

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