静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ巻頭言

主はわたしの名を呼ばれる
司祭 エドワード 宇津山 武志

「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(マタイ16:18)
エスさまが「教会」という組織を設立する意図があったのかどうかについては、新約聖書学の昔からのトピックの一つでした。実はイエスさまの言葉として教会に言及されるのは、ここともう一箇所、しかもマタイ福音書に限られます(18:17)。「使徒たちからの唯一の聖なる公会」を標榜する教会はここに自らのルーツを求める一方、「教会の堕落」に心を痛めた宗教改革者たちの系譜に連なる教会は、これはマタイが付加したもの、イエスさまが願ったのはもっと信仰に根差したものだとなります。

ギリシア語で書かれた新約聖書で、教会は“エクレーシア”、もともと古代ギリシアの政治組織である「民会」を指す言葉でした。ユダヤ教の“シナゴーグ”(会堂)と区別する意味もあったかもしれません。初代教会のキリスト者たちは自分たちの集まりをそのように表現しました(最初期はユダヤ教の分派と位置付けられ、迫害の対象にもなりましたから、教会といっても建物を建てたわけではありません。まさに信仰者の群れ、集まりというイメージだったのでしょう)。世界史の授業を少し思い出してみましょう。民会と言えばアテナイがことに有名です。ポリス(都市国家)で発展した直接民主制で重要なことを民会で決めました。だとすると今で言う国会のようなイメージでしょうか。より言語学的なルーツをたどると「(名前をもって)呼ばれた者」という意味にたどりつきます。教会に集うわたしたちは、まずこのことを胸に刻みたいものです。

9月の終わりから10月の初めにかけて、主日の聖書日課から「ぶどう園」という言葉に注目して、それは神の国を表し、わたしたちに求められるのはまず神の呼びかけに応えてそこに向かうことだとお話ししました。まさに教会は神の国のイコンとして神に呼ばれた者の集まりなのです。

わたしはときどき、いやしょっちゅう、子供の名前を間違って呼んでしまいます。彼らも慣れっこになってしまったのか、「やっと出てきた、わたしは四番目か!」と。「ごめんごめん、自分でつけておいて、面目ない。いやよく似てるから…」と言い訳にもならぬ言葉でごまかすばかり。でも、イエスさまは違います。

ヨハネ福音書には、イエスさまがこう言われました。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」(10:3-5)。

当時の宗教指導者たちは、よく似ていてわからないからではなく、羊の行動の良し悪しで呼ぶか呼ばないかを決めていました。当然迷子になる羊は対象外です。イエスさまはとにかく呼ばれます。良し悪しは関係ありません。「お前が迷子になってしまうのをわたしは望まない。お前はわたしの群れのかけがえのない一匹だ。」

わたしを呼んでくださったイエスさまに、その声に聞き、天のエルサレムへの旅路をともに歩んで参りましょう。

静岡聖ペテロ教会HPへ
facebook twitter

2020年9月20日~10月23日の予定

9月
20(日)聖霊降臨後第16主日(特定20)
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
 清水聖ヤコブ教会
  聖餐式(10:30)
  教会委員会
21(月)福音記者使徒聖マタイ日
 聖餐式(10:00)
25(金)9月度逝去者記念聖餐式
   (10:00)
27(日)聖霊降臨後第17主日(特定21)
 聖餐式(7:30・10:30)
 敬老感謝の礼拝
 島田伝道所 聖餐式(14:00 歩歩路)
29(火)聖ミカエル及び諸天使の日
 聖餐式(10:00)

10月
4(日)聖霊降臨後第18主日(特定22)
 聖餐式(7:30・10:30)
 教会委員会
11(日)聖霊降臨後第19主日(特定23)
 聖餐式(7:30・10:30)
 婦人会例会
13(火)常置委員会(オンライン)
18(日)聖霊降臨後第20主日(特定24)
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
 清水聖ヤコブ教会
  聖餐式(10:30)
  教会委員会
19(月)福音記者聖ルカ日(18より移す)
 聖餐式(10:00)
23(金)10月度逝去者記念聖餐式 
 (10:00)

静岡聖ペテロ教会HPへ
facebook twitter

月報聖ペテロ巻頭言

距離感
司祭 エドワード 宇津山 武志

昨日、久しぶりにエアコンをつけないで日中を過ごすことができました。日の暮れも早くなりました。夕べには窓からの涼しい風と虫の声。ようやく秋がやってきたのでしょうか。不思議なもので、昨日まであれほど憎らしかった日差しですが、洗濯物を干しながらポカポカと心地よく感じるのです。酷暑が熱中症を引き起こし、ときには人を死に至らしめるものですから、日差しがなければ人は生きられないということを忘れさせてしまうのでしょう。これもときに煩わしく感じる父や母、夫や妻といった家族、あの人にこの人、ついには神さまさえ…。でも、わたしたちには欠くことのできない大切な存在であるはずです。
大学時代の恩師から言われた言葉で、ときどきお話しするので、もしかしたら「またあのはなし?」という方がいたらお許しを。「幸せは大切だけど、幸せすぎるのはよくない。何故って神さまを忘れるから。不幸は自分に大切な変化、明日へのエネルギーにもなるけれど、不幸すぎてはいけない。何故って神さまを呪うから。」もう随分と昔のことですが、いつまでも心の海の深いところに残り、そしてときどき意識の中に浮かんできます。わたしたちを苦しめる暑さもそう、お日さまのせいにしますが、異論はあるものの、どうやら人間の営みが大きく関わっているようです。それでもやっぱりお日さまのせいにしておきたいのでしょうね。
わたしが子どもの頃、離れた人との唯一のコミュニケーションの手段は電話でした。それも黒くてダイヤルを回すやつです。しかも一家に一台、大概みんなが使いやすい今などに置かれていました。だから親に聞かれたくない話なんてできませんし、「これからお前ん家行っていい?」なんてものです。そのうちファックスができ、パソコン、携帯電話が普及しますが、まだ子どもの持ち物ではありませんでした。やがて安全のためと子供に携帯電話を持たせるのが当たり前になり、それが今ではスマホに変わりました。メールももう古く、ちょっとした連絡にはLINE、ほかにもTwitterとかInstagramで情報を発信しています。YouTubeで面白い動画を配信し、たくさんの人に再生して貰えばお金さえ手に入れられるようになりました。そこに加えてこのコロナ禍で仕事も学校もZOOMのようなオンラインシステムでできるようになってしまいました。
「お前は古いな」と言われようとも、オンラインで大学の使命は充分に果たすことはできないし、職人の眼差しや息遣いから吸収する熟練は決して継承されないと思います。その際たるものが育児です。たとえスーパーロボットが食事や排泄の世話をできるようになったとしても、やがて成長し生きていく力を育てることはできません。ある保育園での出来事。保育者が離乳食を口に運んでも、食べ方を覚えないというのです。保育者がマスクをしているからで、口の見えるシールドに変えたら口を動かして食べるようになったと。人間が生きていく上で、今は避けるように言われている《密》が不可欠です。命を守るために感染拡大の要因となる《密》を避けながら、命あるものに不可欠な《密》をどうつないでいくか。教会を超えて今私たちが取り組むべき課題です。

静岡聖ペテロ教会HPへ
facebook twitter

2020年8月16日~9月20日の予定

教会暦・予定
8月
16(日)聖霊降臨後第十一主日(特定15)
 聖餐式(7:30・10:30)
※「み言葉の礼拝」は8月30日に移動
23(日)聖霊降臨後第十二主日(特定16)
 聖餐式(7:30・10:30)
島田伝道所聖餐式
(14:00島田市地域交流センター歩歩路)
24(月)使徒バルトロマイ
 聖餐式(10:00)
28(金)月次逝去者記念聖餐式(10:00)
29(土)信徒逝去一年の記念聖餐式
(10:30)
30(日)聖霊降臨後第十三主日(特定17)
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
清水聖ヤコブ教会聖餐式
(10:30)
9月
6(日)聖霊降臨後第十四主日(特定18)
 聖餐式聖餐式(7:30・10:30)
 教会委員会(13:00)
8(火)常置委員会
13(日)聖霊降臨後第十五主日(特定19)
 聖餐式(7:30・10:30)
 婦人会例会
20(日)聖霊降臨後第十六主日(特定20)
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
 清水聖ヤコブ教会聖餐式(10:30)
静岡聖ペテロ教会HPへ
facebook twitter

月報聖ペテロ巻頭言

闇から光を
司祭 エドワード 宇津山 武志

薄暗い聖堂の中で、聖所の電灯だけをつけて過ごす時間は、何とも心地よい最良の黙想と祈りのときです。ヨーロッパの教会は概して薄暗いものです。石造りの強度ということもありますが、窓の面積を大きくとることができません。その窓には聖書の場面を描いたステンドグラスがはめられ、外からの光はさらに和らげられます。最近は歳のせいでしょう。薄暗い中で聖書を読むことが辛くなってきました。ただ、このほの暗さというのは、様々な黙想の種を与えてくれます。
大学に入ってアパートで一人暮らしを始めました。英語を学ぶ中で欧米の文化にも触れ、ゆったりとしたリビングルームでランプの明かりの中でくつろぐ映画の一場面に憧れて、真似をしてみたり…。
さらに子どもの頃の記憶。夕暮れが迫ると、台所で食事の準備をする母が、「電気を点けて」と言います。暗い所で何かを読んだりテレビを見たりしていても、「目が悪くなる」と、明るくすることを促しました。「どうしてそんなに…」と聞くと、「戦時中を思い出す」との答えが返ってきます。その頃は裸電球の時代でしょう。空襲警報が鳴ると灯火管制で真っ暗闇って話も聞きました。だから、夜の明るさは平和と文明の証しでした。高度成長期の日本の多くの家庭が、夜も昼のように明るい蛍光灯に照らされて、夕食後の団らんを過ごしました。
聖堂のほの暗さは、わたしたちの生きる世界をよく表しているように思います。聖所からこぼれてくる明りによって、わたしたちは希望を失わずに毎日を生きているのです。聖堂の長椅子に座って、時には床にべったりと腰をおろし、まばゆい聖所に目を上げると、聖卓の上の聖書が明るく照らされています。神の言葉にこそ、わたしたちは光を見出します。
今わたしたちは、戦争や災害とはまた違う、いまだかつて経験したことのない、想像だにしなかった難しい疫病の時代を生きています。ワクチンができ、治療薬ができ、“なんてことはない風邪”になってしまうまで、不安の中を暗中模索しつつ進んでいかなければなりません。教会に限ったことではありませんが、出会い、集い、言葉を交わすことに制約を受けるというのは辛く、なかなか慣れるものではありません。ほんの半年前まで、わたしたちは出会う人の口元の微笑みに安心を覚えていましたが、今やそれは目の前で親しく話しかける人の口が覆われていないことへの不安にとって変わられようとしています。新しいウイルスは体以上に、人の心を蝕んでいるんじゃないだろうかとさえ思えもします。
この暗闇の中からこそ、わたしたちは神の言葉に光を見出したいと心から願っています。そして、その光を升の下に置くことなく、人々の前に輝かせなければならないと思います(マタイ5:15-16)。
灯火を手に出かけましょう。「行け…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19)という主のみ声が響きます。

静岡聖ペテロ教会HPへ
facebook twitter