≪今月の福音書≫ ルカによる福音書~13:1~ (大斎節第3主日)
神の前にあって
牧師 司祭 シモン 長野 睦
私たちの社会では、毎日実にさまざまな事件や事故が起こります。これは今日の問題だけでなくいつの時代にもあることなのですが、そのような出来事に出あう度に、私たちはなぜこのようなことが起こるのだろうと考えてしまいます。なぜかわからないときその原因と結果を考えて無理に納得させようとします。しかし、それでも、なぜという疑問は最後まで残ります。もしそれが知っている人であればあるほどその疑問は解けません。いつの時代でもそのような出来事は起こります。それが自分とは遠く離れた出来事や人々であれば、時間とともに忘れてしまうことが多いものですし、その原因をその人自身に帰して問題を解決してしまうこともたやすいことです。最も短絡的な物事の解決は因果応報の思想であり、いわゆるバチがあたるという考え方、あるいはその人、物それ自体で見ることをせず、責任の持てない前世の因果として解決してしまうことも一般には多くあることです。解決できないことを無理に解決しようとすれば必然的にそのような道をたどることも一つの解決の方法かもしれません。
この福音書の二つの話の状況もやはりこのような人々の問題の解決の仕方があります。
ピラトの弾圧による犠牲者も、シロアムの塔が崩れて死んだ人たちも今ここにいる人々と比べて決して罪が重かったなどということは決してないと、まず彼らの因果応報の考え方を強く否定されます。私たちはキリスト信者であっても日本の長い伝統のせいでしようか、バチがあたったと言ったり、考えたりしてしまいます。しかしキリスト教の信仰には決してこのような考え方はありません。そうではなく、このような状況にあった人々も、私たちも、みな等しく神の前で罪のもとにあることを知らなければなりません。私たちはすべて、等しく悔い改めなければならない状況にあります。
大斎節はこのことに深く思いを集中するときであると思うのです。共に励んでまいりましょう。
twitterで発信してます。