静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

主日のみことば 聖霊降臨後第18主日(特定21)

2021年9月26日
聖霊降臨後第18主日(特定21)

特祷
憐れみ深い主よ、どうかみ民を赦し、平安を与え、その罪をことごとく清め、穏やかな心をもって主に仕えさせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

旧約聖書 民数記 11:4〜6, 10~15, 24〜29
使 徒 書 ヤコブの手紙 4:7〜12
福 音 書 マルコによる福音書 9:38〜43, 45, 47~48
お手許にに聖書・聖書日課がなくても、インターネットに接続できる環境から「ユーバージョン」(https://www.bible.com/ja)などで読むことが可能です。

今日のみことばから

本日の旧約聖書福音書モーセとイエス、それぞれ神から与えられた力、賜物に他の人も与る、その力を行使する、このことをめぐる周りの人々、殊に彼らを師と慕う人々の反応、嫉妬、そうしたネガティブな反応を取り上げています。
まずは旧約日課、「…どこを見回してもマナばかりで、何もない」という民の言葉にはちょっとした驚きを禁じ得ません。なんと罰当たりな…と。彼らが懐かしんだのは「エジプト」でした。一体何を考えてこういうことを口にするのだろう。恩知らずという言葉がありますが、まさしくこの言葉がぴったりだと感じます。マナとは何であったか。モーセに導かれ、イスラエルの民はエジプトの奴隷の地を逃れることができました。背後に迫り来るエジプトの軍隊も、神が海を裂いて彼らを渡らせることによって奇跡的に振り切ることができた。そうして導き出された荒れ野で空腹を覚え、不平をこぼす彼らに、これも奇跡によって与えられたのが天からのパン、マナでした。飢え死にしそうだとばかりにモーセを攻め立てた彼らは、このマナを大きな喜びをもって口に運び、空腹を満たしました。そして今、「どこを見回してもマナばかりで、何もない」と言うのです。次は肉を魚を、野菜に果物を…。彼らの要求はとどまるところを知りません。
「どこを見回してもマナばかりで、何もない」この言葉は衝撃的ではありますが、彼らの心の動きというものは、彼らに限ったものではなく、ひろく人類の持つ性質のようなもの、わたしたちも例外ではないとの思いに至ります。見方を変えれば、「より楽しく、より豊かに、より平和に、より便利に、より美しく、より強く…」、これは文明の進歩を支えてきた人類の持つ向上心に他ならないからです。そして不平や不満、嫉妬といったものはこうした向上心の栄養源なのかもしれません。今日の旧約日課ではそれが少しばかり醜い形で現れたに過ぎないとも言うこともできるでしょうか。
宿営に残っていた二人の人に霊が降った、民の中から選ばれて集まりなさいと言われているにもかかわらず、急いで向かうこともせず、まだ宿営にいる二人にさえ、モーセに与えられていた霊、神からの権能が与えられた…、知らせを聞いたヨシュアは「やめさせてください」とモーセに願いました。イエスさまの名前を使って悪霊を追い出しているのを見た弟子も、それを止めさせようとしました。どこの誰かも分からない者が勝手に慕い仰ぐ主のお名前を使っている、かといってわたしたちに従っても来ない。その不平もおそらく自然なものでしょう。
「わたしは主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望している」、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのだ」。弟子たちの言葉に対するモーセとイエスさまのそれぞれの答え、ここに共通しているものは、分かりやすい言葉で言えば「寛大さ」ということでしょうか。この反応にわたしたちは驚きを禁じ得ません。わたしは偏狭に過ぎるのだろうかと、考え込んでしまいます。
ここで改めて考え直してみます。
モーセはなぜ神に呼び出されたんだろう” それは、エジプトで苦しんでいたイスラエルの人々の神への叫びがあったから、その叫びに神が応えられ、モーセを召し出し、イスラエルの民のもとに遣わした。
“イエスはなぜこの世界にお生まれになったんだろう” それは救い主を待ち望み、神に願い祈るイスラエルの民の声があったから。
それぞれ時代と状況こそ違え、民は神に「救い」を求めていました。しかし、人が望む救いと、神が与える救いとの間にはずれがあった。“祈りは必ず叶えられる”とよく言ったり聞いたりするはずですが、祈りへの答えはわたしたちの求めとは随分異なるものであったということもしばしば経験するはずです。このずれ、そのぞれによって生ずる躓きや不満、それを埋めていくときに、モーセヨシュア、イエスさまと弟子たちのやり取りどうしても必要だったと思うのです。
“主よ、わたしをあなたの平和の器としてください”という、アシジの聖フランシスコに帰せられる祈りがあります。“器”は“道具”と訳されることもあります。英語では“instrument”や“channel”などの語が用いられます。前者には“楽器”、後者には“運河”などの意味もあります。器も道具も、楽器も運河も、目的のために使われることによって、本来の意義を発揮します。器には何かが盛られ、楽器は弾き手に弾かれ、運河は上から来た水を下に流す。わたしたちは、スイッチを入れたり切ったり、蛇口を開けたり閉めたりするために召されたのではありません。嫉妬はわたしたちをそのような存在に変えてしまうのです。おそらくそれは悪魔の思う壺。
神さまはわたしたちの思いもよらぬ方法で救いをこの世にもたらしてくださります。
静岡聖ペテロ教会 牧師
清水聖ヤコブ教会 管理牧師
司祭 宇津山 武志

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