静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

主日のみ言葉(聖霊降臨後第15主日)

2021年9月5日
聖霊降臨後第15主日(特定18)

特祷
主よ、どうか主の民に世と肉と悪魔との誘惑に打ち勝つ恵みを与え、清い心と思いをもって、唯一の神に従うことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

旧約聖書 イザヤ書35:4〜7a
使 徒 書 ヤコブの手紙1:17〜27
福 音 書 マルコによる福音書7:31〜37
お手許にに聖書・聖書日課がなくても、インターネットに接続できる環境から「ユーバージョン」(https://www.bible.com/ja)などで読むことが可能です。

今日のみことばから
静岡聖ペテロ教会 牧師
清水聖ヤコブ教会 管理牧師
司祭 宇津山 武志
はじめに今日の旧約聖書イザヤ書35章4節以下に目を向けてみましょう。
「神は来て、あなたたちを救われる」
父なる神の御ひとり子、主イエスはこの言葉のとおり、この世に降り来られ、わたしたちを救ってくださりました。洗礼を受けて信仰生活を歩む人々はこのことを知っています。この「イエスさまにおける救いの成就」という歴史を知っているわたしたちは、今日のイザヤの預言をもしかするとすーっと聞き流してしまうことがあるかもしれません。今日のイザヤ書の朗読箇所は「小黙示録」と呼ばれています。イスラエルの民が主の贖いの業によってバビロン捕囚から解放され、救われ、エルサレムへの帰還を賛美する希望の歌です。現代社会、殊にある意味「平和」を享受している日本においてはずいぶんと真綿にくるまれたものとして映りますが、世界が力のバランスによって動いているということは昔も今も変わりません。古代世界、イザヤ書の時代の中近東はこの“力”という言葉がより荒々しく、生々しく、人々の生活を支配していたであろうことは容易に想像できるでしょう。ダビデ、ソロモンなど、イスラエルの民が振り返り懐かしむことのできる時代があったことは事実ですが、その王国はやがて滅ぼされ、輝かしい歴史の象徴である都エルサレムは破壊し尽くされ、国王をはじめとする指導者たちが奴隷のように異国の地へと追われた今、彼らの心を支配するのは敗北感と挫折感、絶望感でしかありませんでした。その彼らに語られるのが今日の日課です。「神は来て、あなたたちを救われる。」「見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く……」、「荒れ地に水が湧きいで……」と、信じられないほどの救いのメッセージを述べます。現実主義者たちはきっと「何を馬鹿なことを」とつぶやいたことでしょう。
旧約聖書において、この預言は確かに成就したかに見えました。ペルシア王キュロスによる解放、故郷エルサレムへの帰還を許され、神殿再建のために援助を得られることになったのです。しかしこうして再び始まったエルサレムを中心とするイスラエルの歴史は、イエスさまの時代に向かってどのように辿っていったかということをわたしたちは知っています。そして彼らが辿ったこの歴史の中にこそ、本日の福音を読み解く鍵があるように思うのです。
福音書に目を移しましょう。人々がイエスのもとに連れてきた人は「耳が聞こえず、舌が回らない人」でした。想像してみてください。わたしたちは耳が聞こえず、聞こえないからうまく話すこともできません。わたしたちが話す言葉は耳から入って言葉として蓄積されていくからです。意思の疎通を図るのは容易ではありません。周りの人はわたしが何を望んでいるか分からないのです。ここで注目すべき出来事が起こります。人々は彼をイエスさまのもとに連れて行くことにしたのです。当時の人々が、弟子たちも含めて、イエスさまの本質を理解していなかったということをマルコは繰り返し伝えています。評判のあの男なら何とかしてくれるかもしれない、そんな思いからかも知れませんが、何はともあれ人々はイエスという評判の男のもとに彼を連れて行ったのです。もう少し信仰という視点に引き寄せて考えれば、彼の望み、彼の辛さ、彼の苦しさ、わたしたちには分からない。でも、あの方なら分かってくださるに違いない。彼の望みを知ってくださるに違いない。と。
そこでイエスさまは何をなさったでしょう。彼を連れてきた人々を残し、彼と二人きりになります。癒すだけならその場でおできになったはずです。しかしイエスさまはそうなさらなかった。彼と二人、彼と向き合い、彼と一対一で関わることを望まれました。
コミュニケーションの術を欠いた彼にイエスさまがなさったことにたいして、もしかしたら、汚いと思われる方がいらっしゃるかもしれません。ここで表現されていることは、外の世界とのコミュニケーションの手段を持たない人間、堅い殻の中に閉じ込められてしまった人間、そこに神はすべてをかけてやってきてくださる。その殻が神によって破られるということです。旧約日課において語られている「神は来て、あなたたちを救われる」一大事がここに起こっているのです。神とのコミュニケーション、神との交わりの循環というものがここに神の業として成し遂げられたのです。
こうして考えてみますと、「開く」という言葉を黙想することは、大きな意味をもったことなんだなということがわかってきます。神がイエスさまにおいて救われる、そこに心を向ける。イエスさまの「エッファタ―開け―」との叫びは、「あなた(神)の栄光を、誉れをあらわす」ために開かれるのです。もしかしたらわたしたちは、人に向って、神に向って「開け」と思うことのほうが多いかもしれないなということにも気付きます。自分が願い思いイメージする神の姿と応答、そこに向って開けと願う。同じように人に対しても…。
「エッファタ」今日わたしたちは、このみ言葉を深く思いめぐらせ、一週間の歩みを始めてまいりましょう


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