静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ3月号巻頭言

祈り・節制・愛の業
司祭 エドワード 宇津山武志

2月22日から4月9日のご復活日に向けて、40日間の大斎節が始まりました。
大斎始日の礼拝は、「神よ、わたしの献げものは砕かれた心、あなたは悔い改める心を見捨てられません」という詩編51編の言葉をもって始まります。先月「練り直す」というテーマでお話ししたように、「信仰の良き実り」を差し出すのではなく、「砕かれた心」をこそ、主は喜ばれることが40日間の大斎節の進路を示す最初の言葉として掲げられます。
そしてこの大斎始日の礼拝の頂点は「灰の十字架のしるし」です。昨年の復活前主日(枝の主日)で持ち帰った棕櫚の十字架を灰にして、それで額に十字架を記すのです。常緑の棕櫚は勝利のしるしです。敵に勝利し力強く凱旋する王を、民は棕櫚の枝をかざし、歓呼をもって迎えました。主イエスさまもかつてこの棕櫚をもってエルサレムの街に迎えられましたが、このときの喜びの熱狂は、即座に敵意と憎悪に変わり、主を十字架へと向かわせることとなりました。ただ、あのときの民の「殺せ、殺せ、十字架につけろ」との叫びは、本当に主イエスさまを殺すほどに憎んでいたのだろうかと思うことがあります。彼ら自身は、イエスさまの命を持ってしか償うことのできないような傷を負っていたでしょうか。端的に言えば、彼らは何も害を被ってはいない、付和雷同に過ぎないのではないかと。神のみ子、救い主を殺す。そのようなことと、わたしたちは信仰のゆえに対極にあると思っていますが、だとすると、ジャンヌ・ダルクを殺してしまえというあの出来事も同じ流れの中にあるようにも思えます。反論する術のない相手を安全な場所から総がかりで罵倒し叩きのめす現代社会の風潮も同じだと思います。つまるところは顔の見えない暴力的な憂さ晴らし。人間は時を経ても何も変わっていない。いや、道具ばかりが進歩してより悪質になっているのかもしれません。ちょっと悲観的にすぎるでしょうか。
大斎節中、わたしたちは「祈りと節制と愛の業」をもって歩んでいくように勧められます。伝統の中で行われてきた「大斎克己献金」も、犠牲としてささげる心をもって行う具体的な愛の業です。その犠牲を通じてわたしたちは、助けを必要としている人に思いを向け、ともに歩む者になるように心掛けます。わたしたちはどこにいても、どんな宗教的な違いがあろうとも、同じ命を生きています。ひとつひとつの小さな命は、互いに支えあう絆のうちに、大きな神の命いのちを生きています。遠い国や地域の人々への支援や、身近な人への労りの手、そこに“十字架の印”がついている必要はありません。ただその支援、その労りの手に、兄妹の、家族の労りと愛の温もりだけを見出してもらえることを願って、この大斎節の祈りと節制と愛の業に励んでいきたいと思います。

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