静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ8月号巻頭言

キリストに対する畏れをもって
互いに仕え合いなさい
(エフェソの信徒への手紙5:21)
司祭 エドワード 宇津山武志

「おそれ」という言葉があります。漢字にすると、「恐れ」あるいは「畏れ」。「恐れ」は、怖がる気持ち、恐怖、不安を表します。一方で「畏れ」は、敬い畏(かしこ)まる気落ち、畏怖、畏敬の念などの用いられ方をします。すると、神への「おそれ」は「畏れ」なのだとわかります。宗教の中には、時に神仏の「恐れ」をことさらに強調して、人を意のままに操ろうとする輩が現れますが、これはカルトといい、人を救いに導くことはありません。彼らは、最初は天使のように、悩みや悲しみ、孤独の中に生きる人の心の隙間に入り込んできます。十分過ぎるほどに気をつけたいものです。
ずいぶん前に『親分はイエス様』という映画がありました。ヤクザがふとしたきっかけでイエスさまに出会い(福音に接し)、回心して伝道者に変えられるという、実際の出来事をもとにした作品でした。観はしませんでしたが、親分がイエスさまで、自分たちが子分とは、まあ面白い表現だなと思ったことを覚えています。明治維新の直後、旧士族から多くのキリスト者さらに奉仕者が生まれて行ったのと似ています。彼らは大名に、幕府に仕えて生きてきたのですが、明治維新によって突然「親分」がいなくなってしまうという喪失感を経験しました。あるいは政治の力で親分がころっと変わってしまうという、不確かさやうつろいのようなものを体験しました。揺らぐことのないまことの永遠の「親分」を求めて、彼らは「イエス」を究極の「親分」として受け入れたとも表現できます。
子分は親分に忠実に従います。親分が怖いからでしょうか。それもあるでしょう。しかし、親分が子分を可愛がる、大事にする、時に身を挺して守る、そういう姿に意気を感じて子分は親分を慕うのだと思います。以前こんな話を聞いたことがあります。ある女性が結婚しようとしていた男性がクリスチャンだった。ところが彼女は違う。男性は、信仰は無理強いするものじゃないから、押し付けたりはしないと言ってくれた、それで安心して結婚に踏み切れた。でももう一つ、この人の親分はキリストさんなんだから、親分が悲しむようなことはしないだろうと、妙な期待と安心感を覚えたと。やがて彼女は信仰へと導かれたそうです。
キリスト教書店に行ったとき、「W.W.J.D」とプリントされたステッカーを見てなんだろうと思いました。”What Would Jesus Do?”(イエスさまならどうする?)とクリスチャンに思い起こさせるものでした。裁きに心が向かいそうなとき、安寧な方向に決断が向かいそうなとき、イエスさま(親分)ならどうなさるだろうと、立ち止まって考えるように努めています。わたし(子分)の意のままに親分を利用しないようにと自戒を込めて。主よ、あなたへの畏れをもって仕える道を教えてください。
した作品でした。観はしませんでしたが、親分がイエスさまで、自分たちが子分とは、まあ面白い表現だなと思ったことを覚えています。明治維新の直後、旧士族から多くのキリスト者さらに奉仕者が生まれて行ったのと似ています。彼らは大名に、幕府に仕えて生きてきたのですが、明治維新によって突然「親分」がいなくなってしまうという喪失感を経験しました。あるいは政治の力で親分がころっと変わってしまうという、不確かさやうつろいのようなものを体験しました。揺らぐことのないまことの永遠の「親分」を求めて、彼らは「イエス」を究極の「親分」として受け入れたとも表現できます。
子分は親分に忠実に従います。親分が怖いからでしょうか。それもあるでしょう。しかし、親分が子分を可愛がる、大事にする、時に身を挺して守る、そういう姿に意気を感じて子分は親分を慕うのだと思います。以前こんな話を聞いたことがあります。ある女性が結婚しようとしていた男性がクリスチャンだった。ところが彼女は違う。男性は、信仰は無理強いするものじゃないから、押し付けたりはしないと言ってくれた、それで安心して結婚に踏み切れた。でももう一つ、この人の親分はキリストさんなんだから、親分が悲しむようなことはしないだろうと、妙な期待と安心感を覚えたと。やがて彼女は信仰へと導かれたそうです。
キリスト教書店に行ったとき、「W.W.J.D」とプリントされたステッカーを見てなんだろうと思いました。”What Would Jesus Do?”(イエスさまならどうする?)とクリスチャンに思い起こさせるものでした。裁きに心が向かいそうなとき、安寧な方向に決断が向かいそうなとき、イエスさま(親分)ならどうなさるだろうと、立ち止まって考えるように努めています。わたし(子分)の意のままに親分を利用しないようにと自戒を込めて。主よ、あなたへの畏れをもって仕える道を教えてください。

静岡聖ペテロ教会HPへ
facebook twitter