静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

復活節第二主日の説教にかえて

先週の日曜日のご復活日から、わたくしたちは教会暦における最大の喜びの期節(これが聖霊降臨日まで50日続く「大いなる50日」)を過ごし始めました。
この復活に先立つ十字架、その前日の夜にイエスさまはゲッセマネの園でそれはそれは辛いお気持ちで祈られました。このゲッセマネの園に伴われたのが三人の愛弟子、ペトロ、ヤコブヨハネでした。ただ、非常に乱暴にまとめてしまいますと、そこに描かれているのは、彼らの失態、不甲斐なさだと言っても差し支えないように思います。
今週の福音もひとりの弟子の姿を記しています。トマスです。トマスは先にあげた三人とともに「十二使徒」と呼ばれる、イエスさまに特に選び出された弟子のひとりです。マルコ福音書によれば、「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(3:13-15)とあります。大変名誉なことです。しかしながら、彼らのすべてが、こんなことをした、あんなこともしたと、細かく記されているわけではありません。中には使徒への任命の記事の中で名前が出てきた程度で、その後のことがほとんど分からない人もいます。そんな中で残されたエピソードによって(ユダは少し別格ですが)、ペトロはなんとなくおっちょこちょいなイメージがあったり、トマスはというと「疑り深い弟子」として記憶されてしまっています。名誉な十二人のはずが、なんとも不名誉なことです。
福音書使徒言行録を読んでいますと、聖書って不思議な本だなぁと思うことがあります。もう一歩進めますと、キリスト教って不思議だなとさえ思われます。福音書が書かれたのは復活の出来事から早くて30年くらい経った頃、一番遅いヨハネ福音書でも一世紀の終わり頃までには書かれていたであろうと言われておりますが、その当時、教会には最初期の弟子たち、すなわちペトロやヤコブヨハネ、トマスらを直接知る人々がまだ生きていました。彼らは最初期の教会にあってはキリストの出来事を直接知る生き証人、教会の最大の指導者たちでありました。しかし聖書は、そのような人々の失敗を躊躇なく書き記しています。主イエスのご存命中、彼らがイエスさまを理解できなかったこと、叱られたこと、ご受難に際して散り散りに逃げ去ってしまったことなど…。彼らを美化するような記事は皆無と言ってもよいかもしれません。今、日本には多くの新しい宗教が生まれてきますが、彼らが口にすることは、いかに自分たちの教祖が優れているか、自分たちの集団がすばらしいか、といったことです。さらには、自分たちの教祖の優秀性が疑われ、教義や構成員が非難にさらされるとき、彼らは著しく排他的に、攻撃的になっていくということもあります。これは草創期の宗教集団にはしばしば見受けられることでしょう。そうしてみますと、キリスト教にとっての聖典である聖書の記述は、いわば“恥をさらす”ようなものです。そういえば、主イエスさまについてさえ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとか、苦しみ悩む姿を鮮明に記すとか、弟子たちにのみ言えることではありません。
このことは、裏を返せば、キリストの御苦しみ、弟子たちの無理解や躓きといったものが、人が福音を受容するに当たって、キリストによって成し遂げられた救いの意味を知るに当たって、どうしても伝えなければならないこと、ぜひ知っておいてほし事がらであったということです。キリストの生き証人であり、初代教会の指導者であった彼らは、自分たちの本当の姿を伝えることがどうしても必要だったと知り、信じ、教導・司牧の生涯を歩んでいったのでしょう。
福音書は、キリストとその仲間たちという善玉と、旧体制にしがみつく祭司長や長老、律法学者、ファリサイ派サドカイ派といった悪玉の物語ではない、愛の極みである神と罪人(それは悪いことをするという意味ではなく、立派さとか優秀さとはかけ離れた不完全)なる人間との物語と表現することができるかもしれません。
弟子たちの姿の中に、あるいは敵対者の姿の中に、自らのうちにある同じゆがみ、疑りやつまずき、悪意と敵意、頑なさ、移ろいやすさを、わたしたちは見出していくことを求められているのだと思います。そしてその先にこそ、そのような己の姿を大きく超え、包む、神の愛を見出し、心に刻み、神とともに行き始めていくことができるのです。自分の姿、聖書が示す神の望む姿とは遠くかけ離れたわたしたちの姿に、それを突きつけられて打ちひしがれ、うなだれるのではなく、そのようなわたしたちを包む神のみ手、眼差し、そしてキリストのご生涯によって示された深い愛と勝利に心からの感謝を献げる、まことの喜びに満たされるのです。暗闇の底からこそ、光なるキリストの中に命と喜びを見出すということときっとつながっているのだと思います。
この足りないわたしをこそ、神のみ前に差し出し、神のみ手に委ねてまいりましょう。

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