静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ3月号巻頭言

やり遂げる
司祭 エドワード 宇津山 武志

北京冬季五輪。スピードスケート女子小平奈緒選手が最後のレースを10位で終えた後のインタビューでの言葉が心に残りました。「成し遂げることはできなかったが、自分なりにやり遂げることはできたと思う」。「成し遂げる」と「やり遂げる」、二つの言葉をこんなふうに対比して考えたことはありませんでした。成し遂げるを辞書でひくと、「物事を最後までやりとげる。また、見事にやってのける。」とありますから、それほど大きな差はないのかもしれません。ただ、成し遂げるには「偉業を達成する」イメージが、一方やり遂げるには「結果の成否に関わらず持てる力を使い切る」イメージがあります。何につけ、わたしたちは結果を求められる人生を生きています。成し遂げて表彰台で喜びに溢れる選手の姿には感動を覚えますが、時に成し遂げられなかった人たちの姿がそれ以上の思いを掻き立てることもあります。今回の五輪は特にそんな美しき敗者の姿と言葉が心に残りました。
エスさまは、十字架の上で「成し遂げられた」とみ言葉を発し、頭(こうべ)を垂れました。十字架状の刑死という敗北の極みで、イエスさまは何を「成し遂げた」のか。それは父のみ旨です。ご自身の命と引き換えに、ちちのみ旨である “人類の救い”、いや、そういうふうに第三者の目から見た事実なのではなく、“このわたしの救い”を成し遂げてくださりました。わたしたちが今こうして生きている命は主の死によって生かされているのです。ユダは師と仰いで従ってきたイエスさまの血、主を死に追いやってしまったという後悔と責任の重さに耐えきれず自ら死を選びました。わたしたちはその血、その死がわたしと深い関係があることを憶え、ユダとは反対に、感謝のうちに生きるようにと召されているのです。
さて、信仰者の生涯は、「成し遂げる」ことを目指して歩むものなのでしょうか、それとも「やり遂げる」ことを目指して歩むものなのでしょうか。答えはそう難しいものではありません。わたしたちは主イエスさまが十字架の上に命を献げて成し遂げてくださった“神とともにある命”を生き通す、生き切る、やり遂げるのです。もしもわたしたちが篤い信仰をもって何かを成し遂げようとしたら、それは主イエスさまをキリスト=救い主の座から追い出してしまうことになってしまうのです。
さらに、イエスさまは十字架の上に「わたしは父のみ旨を成し遂げた」との達成感と充実感をもって息を引き取られたのでしょうか。わたしはそうでないと思うのです。イエスさまはただやりきった。その結果を父が受け取り、救いを成し遂げてくださったのではないかと。
人類の苦悩、神がお創りになったこの世界の悲劇は、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3:5)という悪魔の誘いに心動かされたことに始まりました。そこに生じたのは、「これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉」(同2:23)なるふさわしい「助ける者」(同2:18)に対して自分が裸であることを知って腰を覆い、主なる神の顔を避けて園の木の間に隠れることでした。破戒が破壊を産んだのです。3月2日から大斎節が始まります。言い古された言葉ですが、克己の季節です。それは、何か自分に課した目標を成し遂げるものではありません。神を追いやろうと知る己との戦いをやり遂げることだと考えたいと思います。
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