あなたの富のあるところに
司祭 エドワード 宇津山 武志
「散財」という言葉がある。実は大人になるまでほとんど聞いたことがなかった。まあ、だいたい意味はわかるのだが、辞書を引くと「不必要な金銭を使うこと。」とある。自分自身というよりも相手に対して「とんだ散財をおかけして…」などと使うことが多い。お詫びのニュアンスを込めたお礼の言葉といおうか。ただ、初めて聞いたときも今も、この言葉があまり好きではない。
繰り返しになるが、「散財」の「財」はお金。お金を不必要なことに使ってしまう。浪費する。だから「散らす」のだ。自分がそのように言われたとき、例えば誰かと一緒に食事をする、その費用を負担する。そのときにわたしは「散財」したとは思わない。だってあなたとこうして美味しいものをいただき、楽しい会話をし、何ものにも変えがたい貴重な一時を過ごしたんだから。財を散らしたのでなく、財を得たのだと…。まあ、それをわたしが祇園でやったらまぎれもない散財だろうけど。
イエスさまは言われました。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:19-21)
イエスさまは、地上のものに価値を置くのではなく、天上のものに価値を置くようにとお命じになりました。ですから、先ほどのわたしの例で言えば、そうして得た友との親しさは裏切られて無に帰することだってありますから、イエスさまのご本意とは違うのでしょうね。無に帰することのないものに価値を置けと。そういえば、昔、牧師時代の遠藤主教さまにたくさん美味しいものをご馳走になって「散財」させましたが、まあ、いまこうして司祭として生きていますから、これはぎりぎりセーフということにしておきましょう。主教さん、あれは散財ではありませんよ!あちらで「いやぁ、散財だったね〜」と言われないように気をつけます。
「富のあるところに、あなたの心もある」これは本当に恐ろしいご指摘です。富とすべきでないところに心を釘付けにされると、本当に富とすべきところにもはや心が無くなってしまうのです。「執着」というのは、自分がそこに釘付けになっていることに気付くことさえ困難です。大事にしていた鉢植え、どうも育ちが悪い、花が咲かない。水も肥料もやってるのに…。そうだ、鉢を替えてみよう。すると根の周りの土がカチカチだったなんてご経験はありませんか?これじゃあ育つわけないなぁ。そんなふうに納得します。わたしたちもまた、自分自身を神さまに差し出し、小さく固まってしまった根っこを解(ほぐ)し、執着から解き放っていただきましょう。そうしたらきっと、きれいな花が咲き、実を結びます。