静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

大斎節第5主日の説教にかえて

 今日の福音の舞台はベタニア、主人公はラザロです。ベタニアはエルサレムのすぐ東、キドロンの谷を挟んだ小高いオリーブ山、その峰のわずかに東南に位置する小さな村です。諸説ありますが、エルサレムへの巡礼者に滞在場所を提供する、わたしたちの感覚では「民宿」をイメージするといいでしょうか、そんな役割を持った村であったのではなかろうかともいわれています。マルタ、マリア、ラザロのきょうだいは、そういう中でイエスさまと知り合ったのでしょうか。そして徐々に親交を深め、福音書には「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11:5)と記されるまでになります。使徒たちのようにイエスさまに呼ばれ、すべてを捨てて従い、ともに生き、歩むことを通して信仰を育てらた人びと、あるいは奇跡的な癒しの体験などを通してイエスさまへの信仰の灯火を灯されていった人びととは違い、彼らは生活の中でイエスさまと出会い、その教えやひととなりに触れ、目を開かれ心を開かれ、信仰を育てられていったのでしょう。想像をかき立てられます。
 今日のエピソードで、ラザロは病に伏し、マルタとマリアはイエスさまに助けを求めますが、間に合わずに死んでしまった。そこから物語が展開します。
 ラザロという名前は、エリエゼルの短縮形と言われています。エリエゼルはさらに、「エリ」+「エゼル」に分解できます。難しいことはちょっとわきへおいて、「エリ」は「神」、「エゼル」は「助け手」。すなわち、ラザロ(エリエゼル)は「神は我が助け」を意味する名前です。

 ラザロは死んで墓に葬られて四日も経ち、おそらくもう臭うだろうと誰もが常識的にそう考える状態でした。神の助けは重い病に伏し、手の施しようもなくついに死に、布でグルグル巻きにされ、墓に葬られてしまったのです。わたしたち人間は、神さまからの助け手、導き手、救い主を死に追いやり、墓に閉じ込め、「もう臭うし・・・」と諦めてしまっているのです(まさに、「臭いものに蓋」ですね)。悲しいけれど、それがわたしたちの姿なのでしょう。そして、そのようなわたしたちの諦めこそが、わたしたち自身をも今日の旧約日課が記す“谷を埋め尽くす骨”(エゼキエル37:1-14)にしてしまっているのではないでしょうか。
 「我々の骨は枯れた」と嘆くわたしたちに、主なる神は「わたしはお前たちの墓を開く」と宣言されます。さらに、「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。」とさえ言われます。
 はるか昔、主なる神は「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられ…人はこうして生きる者」となりました。神は人をご覧になり、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者(エゼル)を造ろう。」と、「人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられ」ました。ここでいう「助ける者」とは、一人でこなすには大変な家事や労務を分担してくれる存在などではなく、人が一人では決して成し遂げられないことを「二人は一体」となって成し遂げてくださる存在です。
 イエスさまと一体となって成し遂げていただけることはなんでしょうか。それは閉ざされた天国の門を再び開くことです。イエスさまは十字架の上にご自身の命をささげ、まさに一度死んで墓から出ることを通してそれを成し遂げてくださいました。
エスさまはただ、そのことをわたしたちに示し、その業に与りなさいとはおっしゃいません。「手と足を布で巻かれ…顔は覆いで包まれていた」わが神の助け手なる「ラザロ」を「ほどいてやって、行かせなさい」と命じられます。それがわたしたちに求められる応答です。神の息に生かされ、深い感謝とともにこの布をほどき、主と一体となって歩んでまいりましょう。
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