静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

主日のみ言葉 聖霊降臨後第17主日(特定20)

2021年9月19日
聖霊降臨後第17主日(特定20)

特祷
憐れみ深い全能の神よ、どうか主の豊かな恵みによって、すべての害あるものから守ってください。体と魂とに備えをし、あなたのみ心の思いを喜んで成し遂げることができますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

旧約聖書 智恵の書 1:16〜2:1, 12〜22
使 徒 書 ヤコブの手紙3:16〜4:6
福 音 書 マルコによる福音書9:30〜37
お手許にに聖書・聖書日課がなくても、インターネットに接続できる環境から「ユーバージョン」(https://www.bible.com/ja)などで読むことが可能です。

今日のみことばから
静岡聖ペテロ教会 牧師
清水聖ヤコブ教会 管理牧師
司祭 宇津山 武志

本日の旧約聖書(続編)の知恵の書は、「我々の一生は短く、労苦に満ちていて、人生の終わりには死に打ち勝つすべがない。我々の知るかぎり、陰府から戻って来た人はいない。」という「神を信じない者」の言葉を「誤っている」と言っています。しかしながら、“信仰”という文脈から離れてこの言葉を読めば、厭世的ではありますが、至極当然な考え方とも言えます。この“現実”から、「だからどうするのか」、「ではどのように生きるのか」という次の一歩がわたしたちの命の歩みをまったく別方向に向かわせるのだと思います。わたしたちはこう自問します。「わたしたちにとって一生の“長さ”・“短さ”とは一体なんだろうか」、「わたしたちの人生に満ちている苦労とは“苦役”なのだろうか、それともそこに何かの“意味”を見出しうるものなのだろうか」、「わたしたちの人生の終わりにやってくる死とは、はたして惨めな“敗北”なのだろうか」…。
主とともにエルサレムへと歩む道すがら、弟子たちはこんなふうに小声で言葉を交わしたかもしれません。「我々の一生は短く、労苦に満ちていて、人生の終わりには死に打ち勝つすべがない。我々の知るかぎり、陰府から戻って来た人はいない。」イエスさまは三度ご自分の身に起こる「最期」について弟子たちにお伝えになりました。“受難予告”よ呼ばれているものです。一度目は先週の福音書
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」(マルコ8:31〜32)
弟子たちはきっと、“何を馬鹿なことを…”と思ったことでしょう。弟子のリーダー格であったペトロは“そんなことをおっしゃるものではありません”といった具合でしょうか。イエスさまを「諫め」たというのですから…。当然イエスさまはペトロを厳しく叱ります。「サタン(悪魔)、引き下がれ!」。二度目が今日の福音書です。
「弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられた…。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」(マルコ9:31〜32)
弟子たちはやはり理解不能でしたが、一度目のペトロとイエスさまのやりとりを知っていますから、「怖くて尋ねられなかった」。ざわざわと波たてる心の声を、彼らはグッと押し殺すしかありませんでした。そして三度目。
「イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。』」(マルコ10:32〜34)
二度目の受難予告の後、弟子たちは(自分たちの中で)「だれがいちばん偉いか」と論じ合っていました。ちょっと想像を膨らませ過ぎですが、“ペトロがあんなふうに叱られたんだから、今度は俺じゃないか?”などと…。三度目の受難予告の後、ゼベダイの子ヤコブヨハネがイエスさまの前に進み出て、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」などと願ったといいますから、あながち想像のしすぎとも言えないかもしれません。やはりここでも当然のこと、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と諌められます。“徹頭徹尾”、弟子たちはイエスさまの言葉の意味、神のみ思いを理解することはなかったのです。
このようなことを言って、わたしはことさらに弟子たちを貶めているわけではありません。だれが、メシア=救世主が時の権力者になぶりものにされ、殺されるなどと考えることができたでしょう。ましてや死んでも復活するなどと…。
エスさまは弟子たちに「仕える」ことを求められました。わたしたちには聞き慣れてしまった感がありますが、これとて簡単に理解できることではなかったはずです。福音書に記されたイエスさまのご生涯に思いを馳せ、今日改めて、イエスさまは仕える神の子であられたと気づきます。弟子たちにもずっと仕えることを実践の中で学ばせていかれました。
「仕える」ことから離れるとき、おそらく教会は滅びへと向かいます。「仕える」ときにのみ、教会、キリスト者、聖職者は輝きを、キリストの光を放ちます。
「仕える神の子イエス」、そのご生涯をわたしも辿ることができますように。
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