静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ8月号巻頭言

何事にも時がある
司祭 エドワード 宇津山 武志

「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と言います。それはどんな時を言うのでしょう。
それは「生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時 保つ時、放つ時 裂く時、縫う時 黙する時、語る時 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。」です(コヘレト3:1-8)。いつもそうあって欲しいと思う時もあれば、それと対を成すように、およそ望ましいとは思ない時も列挙されています。
この夏、染谷神学生が夏期実習で2週間共同生活をします。同年代で、ほぼ同じ時期に学生生活を送り、わたしは7年ばかり、染谷さんはもっと長く30年あまりの企業生活を経、聖職の道を志して神学校へという、なんとなく似た“ルート”を辿っていますので、牧師館での食後の時間も話がはずみます。聖職の道について、神学校での勉強についての話はもちろんですが、「あの時代はよかった!」なんて、おっさん同士の話でも。
わたしたち二人に限らず、聖職は誰でも、それぞれの人生経験の中で何者かに出会い、何者かに背中を押され、何者かに憧れ、「この道を歩んでいこう」という思い(召命感)を抱き、さらにそれが教会の祈りに育まれ、「召命」に結実します。結実してからも、神学校で、卒業後の宣教・牧会の現場で、執事・司祭志願に向けた歩みの中で、もみほぐされ、砕かれ、バラバラになりながらも、その一つ一つのかけらを拾い集め、もう一度「信仰」・「召命」を形作っていきます。最初に手のひらに大事に乗せた果実とは似ても似つかぬものかもしれませんが、わたしたちにはこうした営みが必要です。
お互いの「召命」の体験を語り合いながら達した結論は「そうだね、時があるんだね」ということです。聖職への歩みの中で、それぞれ決定的な、そして相応しい時。しかしそれはすべての信仰者の歩みの中に必ずあるものです。「なぜこの願いは今叶えられないのか」という問いを、多くの人は繰り返しつつ生きていかねばなりません。「時ではないからだよ」と、立派な答えをいただいたところで何の解決にもなりませんし、腹立たしいばかりでしょう。わたし自身、解決できない難問と日々格闘の毎日です。その答えは、格闘の後、静かに、そっと、わたしの傍に示されます。
新型コロナウイルスがわたしたちの生活を激変させてからもう2年が経過しようとしています。わたしにとっては、「とにかく我慢して何とか乗り切るしかない」時かもしれませんが、学生はかけがえのない青春時代の共同生活を奪われる時、ご高齢の方には、「コロナが収まってもう一度聖歌が歌えるようになるころに教会に来られるかどうかわからない」時を過ごしています。
それでも、これがお一人ひとりの神の国へと歩む旅路にとって大切な時期となるように、そう変えられるように、同じ時を歩む牧者の一人として精一杯勤めてまいりたいと思います。
静岡聖ペテロ教会HPへ
facebook twitter