静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

主日のみ言葉(聖霊降臨後第16主日)

2021年9月12日
聖霊降臨後第16主日(特定19)

特祷
神よ、あなたに寄らなければわたしたちはみ心にかなうことができません。どうか何事をするにも、聖霊によってわたしたちの心を治め、導いてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

旧約聖書 イザヤ書50:4〜9
使 徒 書 ヤコブの手紙2:1〜5, 8〜10, 14〜18
福 音 書 マルコによる福音書8:27〜38
お手許にに聖書・聖書日課がなくても、インターネットに接続できる環境から「ユーバージョン」(https://www.bible.com/ja)などで読むことが可能です。

今日のみことばから
静岡聖ペテロ教会 牧師
清水聖ヤコブ教会 管理牧師
司祭 宇津山 武志

今日の旧約日課イザヤ書はこう始まっています。
「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。」
このみ言葉を心の中で何度も繰り返してみましょう。「耳を開かれる」ことが「弟子として福音を語る」ことに先んじるということを読み取ることができるように思います。
旧約日課の前半部分のキーワードと捉えることのできる「耳」、これは言うまでもなく、「聞く」ための器官、聴覚をつかさどる器官です。教会に関わりを持って生活をしている人はよく耳にする「み言葉に聞く」、「み声に聞く」。今日の説教準備の中でこの「聞く(聴く)」という言葉をもう一度じっくりと思い巡らせてみました。
「きく」にはふたつの漢字が用いられます。ひとつは門構に耳と書く「聞く」。もうひとつは、耳偏に十四の心と書く「聴く」ですが、これは略字体で、もともとは「聽」と書きました。国語辞典には、「広く一般には『聞』を使い、注意深く耳を傾ける場合に『聴』を使う。」と説明されています。英語にもふたつの「きく」という単語があります。「Hear」と「Listen」です。Hearは聞こえてくるといったニュアンスを持っており、漢字の「聞」に近く、Listenは聞く人のより能動的な姿勢といったものを含む、漢字の「聴」に近い意味を持ちます。
「きく」という言葉の持つ意味について、国語辞典にはずいぶんとたくさんの定義が記されています。「①外からの音に対して聴覚器官が反応する」という文字通り生物学的な定義はもちろんですが、さらにいくつかの興味深い定義があります。「②人の言葉を受け入て意義を認識する」、「③聞き入れる、従う、許す」、「④よく聞いて処理する」、「⑤注意して耳に留める、傾聴する」などです。外から耳に入ってきた音は聴覚器官が反応して、脳みそがそれを音として認識すれば「聞いた」ことになります。しかし生活の中で耳に入ってくる多くの音は「心地よい」とか「うるさい」などの感覚を覚えるだけで消えていってしまいます。自分に語りかけられる言葉であっても、「あの人は聞いたことが右から左に抜けてしまう」と、心の中にも記憶の中にも残らないものも多い。しかしもう一歩進めて、「聞く」ことには、耳に入ってきた音を言葉として受け入れる、受容する。そしてその受容した言葉を自分の人生の中で行いとしてあらわしていくという過程を伴うものだといってもよいかと思います。
さらに漢和辞典を調べてみます。「聴」という字を引くと、もう少し明確にこのことが示されています。「①よく聞く、聞き取る」、「②聴いて受け入れる、聞き入れる、ゆるす」など。そして「聴」という字の旧字体、「聽」、つくりの「十の下に四、そして一を書いて最後に心」と書く。これには「まっすぐな心」という意味があるそうです。さらに偏の「耳」という字の中にある「王」という字、これは正確には「王」ではなく「壬」という字で、「突き出す」という意味があるそうです。「耳を突き出して、まっすぐな心でよく聞く」、これが「聴」という字の本来の意味ということです。
「きく」という言葉にこだわってきましたが、その意味にさかのぼって深く考えてみますと、それが想像以上に難しいことだなと分かります。「聖書に聴く」…、それは「聖書の一つひとつの言葉にしっかりと耳を突き出し、それをまっすぐな心で聞き、受け入れる」ということです。「聞き役に回る」、「悩みに耳を傾ける」、それぞれ並大抵のことでないことが分かります。信仰にしても、思想にしても、「こうだ」というものがありますと、なかなか違う見方、聞き方ができません。それを「頑固者」というのでしょう。わたしもその一人だとつくづく思い知らされます。聴くことを大切にしようと生きている人々が一番聞き下手だというのはなんとも皮肉です。
今日の福音のペトロのエピソードにもこうした「聴くことの難しさ」を垣間見ます。「み言葉に聴く」、「主イエスに聞く」、それは「受け入れ」、「従う」ことが求められる聞き方です。「受け入れ」て「従う」過程には、「葛藤」もあるでしょう。「黙想」という言葉をわたしは良く用いますが、「黙想」を英語で“Retreat”といいます。「リ+トリート」です。リサイクルではありませんが、「リ」=「もう一度」という意味を持つ接頭語に「トリート」=「取り扱う・処理する」という単語がついて「リトリート=黙想」を表現するということはわたしたちに重要な視点を与えてくれるように思います。
どうかわたしたちが、み言葉を「聞き」、もう一度そのみ言葉に取り組み(リトリート)、葛藤し、「受け入れ」、「従う」者とされますように。「主なる神はわたしの耳を開かれた。」このイザヤの告白をわたしたちもまた心の中で力強く宣言するものとされますように。


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