修理承ります
司祭 エドワード 宇津山武志
今年の夏は静岡が何度もニュースに取り上げられました。「全国最高気温」です。40度はさすがに堪えましたね。日が沈んでも汗はひかず、冷蔵庫でキンキンに冷やしたアレの美味いことったら。そんな夏もひと段落したと思ったら、頑張りすぎたんでしょうか、そのありがたい冷蔵庫が壊れてしまいました。叩いても揺すっても直ってはくれません。 “壊れたものは直す”のですが、最近はこの直すというのもままならず、取り換えることになりました。
「そうだな、壊れたものは、直さなければ直らないよなぁ」なんて考えているうちに、別のことに思いが向かいました。神さまとわたしの関係、わたしと誰かの関係、これももし壊れてしまったとすれば、たたいたりゆすったり放っておいたりで直るものではありません。
神のみ子、イエスさまがこの世に来られた理由。それがまさに、壊れてしまった神と人との関係を修復する、切れてしまったきずなをもう一度結ぶことでした。神さまとの関係、神さまとの絆を傷つけ断ち切ってしまったのは人だったにもかかわらず…。
神さまは天地万物を創られ、そこにご自分に象って人を置かれました。その目的は、何よりもまず、神さまとの交わりのうちに生きること。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2: 7)という言葉に示されているとおり、神の吹き入れてくださる息を離れて、人は生きることはできないのに、そのことを忘れて自分で息をして生きていると思い始めるときに、人間と神との関係は損なわれ始めます。
そして、もう一つ。神さまが創られた世界にあって、すべてのものとの調和のうちに生きること。「地を従わせよ」、「生き物をすべて支配せよ」(創世記1:28)という、神さまの人間への語り掛けは、そのように聞くべきであって、これを取り違えると、わたしたちは、地上の王、被造世界の暴君として、神をどこかに葬り去ってしまうのです。
聖書はこのような人間のありようを「罪」と呼んでいます。ここで言う「罪」とは、倫理・法律を犯す罪ではなく、「的外れ」を意味します。神さまが造られた目的を離れて、まったく別の方向に生き始めてしまうことです。
本来なら、ここで神さまは、人間に託したそのような使命を諦めて、なかったことにしてもよさそうなものですが――実際、ノアの洪水でそのようにされかけました――そうはされませんでした。数多の預言者を送り、「立ち返れ」と呼びかけますが、人は聞く耳を持ちません。ついに神さまはご自分のみ子、イエスをこの世にお送りになったのでした。
わたしたちはまず、神さまとわたしとの関係が「壊れている」ということに気づかなければなりません。神さまとの関係が壊れていることに気づくと、おそらく同時に、この壊れが人間の力では修復できないものであるということに気づくはずです。さて、どうしたものか…。途方に暮れて真っ暗闇をさまよい歩いていると、「修理承ります」の看板を見つけます。なんとそこにいらしたのは、神の子イエスさまでした。わたしたちは、「ああ、これで直る!」と、有り難さも忘れ、乱暴に扱ってしまったことを心からお詫びし、感謝をもって、自分を差し出すのです。神さまとの関係も、人との関係も、壊れたものは放っておいて勝手に直るものではありません。イエスさまにわたしを差し出しましょう。
「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」
(詩51:19)
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