静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ巻頭言1月号

被献日によせて
司祭 エドワード 宇津山武志

12月25日の「降誕日」に始まる祝祭は、2月2日の「被献日」をもって一つの区切りを迎えます。
レビ記12章には、出産にまつわる様々な規定がまとめられています。出産は出血を伴いますので、男児を出産したとき、産婦は七日の間汚れています。そして八日目に割礼と命名が行われます。これが1月1日の以前は受割礼日と呼ばれていた「主イエス命名の日」です。産婦は出血の汚れが清まるまでさらに33日間家に留まり、その清めの期間を終えて“お宮参り”にいきます。ユダヤ教では、人間であれ家畜であれ、その家に初めて生まれた子は神さまに献げなければなりませんでした(出エジプト13:2)。アブラハムによるイサクの奉献の故事にも思いが至りますが、その本意は、恵みが神さまからいただいたものであるということの確認、最も大切なものを神さまに献げることを通して神への感謝と信頼を改めて認識することにありました。実際には、初子の身代わりとして、小羊一匹、あるいは家鳩か山鳩二羽を献げ物としました。このように、被献日には二つの意味があります。一つは産婦(マリア)の清め、もう一つは初子(イエス)の奉献です。
さて、律法にしたがって神殿に詣でた聖家族に思いがけないことが起こりました。シメオンとアンナという高齢の預言者が彼らを喜び迎えたのです。
シメオンは「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けて」いました。「シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:25〜32)。夕の礼拝で毎日に唱える「シメオンの賛歌」です。
この日、両親の目的は、彼らに幼子が与えられたことを神に感謝し、その生涯を神に委ねるとともに、鳩を生け贄として献げ、愛する幼子の命を買い戻すことでした。しかし神は、シメオンの口を通して、この幼子こそが万民の救いとしての生け贄であり、そのために神はこの幼子を清めて人類の手にお返しになったのです。わたしたちは聖餐式の度に「自らを献げて」(懺悔の呼びかけの言葉)神の清めをいただき、救いの器としてこの世へと遣わされていくのです。

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2023年12月の予定

3(日)降臨節第1主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 教会委員会(12:45)
10(日)降臨節第2主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 ぶどうの会(礼拝後)
 大掃除
19(日)降臨節第3主日
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
21(木)使徒聖トマス日
 聖餐式(10:00)
22(金)12月度逝去者記念聖餐式
(10:00)
24(日)降臨節第4主日
 聖餐式(7:30・10:30)
 降誕日前夕の礼拝(18:00)
 降誕日 聖餐式①(22:00)
25(月)降誕日
 降誕日 聖餐式②(7:30)
 降誕日 聖餐式③(10:00 祝会)
26(火)最初の殉教者性ステパノ日
 聖餐式(10:00)
27(水)福音記者使徒ヨハネ
 聖餐式(10:00)
28(木)聖なる幼子の日
 聖餐式(10:00)
31(日)降誕後第1主日
 聖餐式(7:30・幼児祝福式10:30)
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月報聖ペテロ12月号巻頭言

あなたの言葉はわたしの足のともし火
わたしの道の光
司祭 エドワード 宇津山武志

聖職の道を歩み始めて約四半世紀、この間に社会も教会も大きく変化しました。司祭に按手されたときには「ああ、定年まで40年もあるんだな…」と、長いなという印象で受け止めていたのですが、その待ち遠しい定年まであと12年、登山で言えば七合目まで来てしまいました。
この四半世紀の変化の中で、自分もまた変化してきました。ここに至り(この歳になって)、改めて思うこと、心の真ん中に座っているのは、「あなたの言葉はわたしの足のともし火 わたしの道の光」という詩編の言葉です(119:105、祈祷書版)。神のみ言葉こそが、わたしの足のともし火であり、行く道の光である。わたしの足をつまずきから守り、行くべき道を示してくださるのです。言い換えれば、わたしが帰るべき場所、人生の旅路の力はみ言葉=聖書にあるということ。何を当たり前のことをと笑われるかもしれませんが、み言葉に聞き従っているようで、実はみ言葉を自分の思いに従わせているようなことは、自分を顧みてもしばしば起こっているように思います。
わたしたちは聖書を通して、“イエス”という、今から約2000年前にユダヤパレスチナ地方で生きた人の人生と言葉に触れます。それが文字化されるときに、当然記した人のフィルターがかかります。それを2000年を経た遠い日本の地で読むときにまた、読み手の解釈が加わります。読み手は話し手の言葉に、意識無意識の別なく、自分の思いを読み込み、結果色々な色と飾りが施され、話し手の思いとはかけ離れたものになっていってしまうのです。主イエスご自身が、そのことを経験なさいました。自分たちの思いと違うと気づいたとき、群衆の熱狂は敵意と殺意に容易に変わったのです。
聖職に按手され、黒いクラージーシャツを着てなんとなく喜んでいたのを感じ取っておられたのでしょう。先輩の司祭がこう話しかけられました。「聖職がなんでこんな黒い服を着るか分かる?」。答えに窮していると、「黒は着ている人の色を全部消してしまうんだよ」とニヤリ。“お前が伝えるべきはキリストの福音であって、お前じゃないんだよ”と、言葉の奥にそんなアドバイスを聞き取りました。これは聖職だけに求められる“在りよう”ではありません。すべてのキリスト信徒がそう生きていけるように、聖職は象徴的にそのことを示すのです。
ガリラヤの小さな村ナザレで、まだ少女だったマリアは天使ガブリエルの受胎告知に接し、「お言葉通りこの身になりますように」と、神のご意志を受諾し、神の命を宿し、この世にあらしめました。
わたしたちもマリアの業、み言葉を受け入れ、神の命をその身に宿し、いたわり育て、神の命、一隅を照らすまことの光としてこの世に送り届けるようにと召されているのです。
しもべは聞きます、主よお話しください。
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2023年11月の予定

1(水)諸聖徒日 聖餐式(11:00)
 墓参
5(日)聖霊降臨後第23主日(特定26)
 聖餐式(7:30・10:30)
 教会委員会(12:45)
12(日)聖霊降臨後第24主日(特定27)
 聖餐式(7:30・10:30)
 ぶどうの会(礼拝後)
19(日)聖霊降臨後第25主日(特定28)
 聖餐式(7:30)
 み言葉の礼拝(10:30)
 静岡県ホームミッション委員会(14:30 静岡)
24(金)11月度 逝去者記念聖餐式(10:00)
26(日)降臨節主日(特定29)
 聖餐式(7:30・幼児祝福式10:30)
30(木)使徒聖アンデレ日 聖餐式(10:00)
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月報聖ペテロ11月号巻頭言

限りある時を通して
司祭 エドワード 宇津山武志

わたくしごとですが、先日母を天に見送りました。9月の初め、ちょっと普通とは違う腹痛に自分で救急を受診しそのまま入院。それからは検査に次ぐ検査、10月の初めに手術を受け、回復に努めていましたが、中旬に急激に悪くなってしまいました。本人はもう少し前から不調を覚えてはいたのでしょうが、わたくしたち家族にとってはわずか1ヶ月半の闘病、あっという間の別れでした。「もう一度良くなって、みんなにおいしいご馳走を作ってあげたいの」、最後の日、痛みに顔を歪めながら絞り出すように言った言葉です。母の最後の願いでしたが叶いませんでした。
自宅で母の介護を受けて生活していた父は、母の入院のため自宅での生活を続けることができず、やはり入院となりました。毎日「おかあさんはどうだ?変わりないか?」と電話がありましたが、「大丈夫だよ」とだけ答え続けていましたが、最後は両方の病院の許可を得て、母の病床に付き添いました。自分を看取ってもらうと信じていた元気な母に先立たれ、途方に暮れた父は「おれも早くあっちに行きたい」と繰り返します。
「もう少しだけでいいから生きたい」という願いも、「すぐにあちらに行きたい」という願いもかないませんでした。父や母が悪い人だったからその願いがかなわなかったわけではありません。信仰が足りなかったからでもありませんし、そばにいたわたしの祈りが欠けていたからでもありません。「命は神さまのもの」と説いてきた自分の言葉が鋭い剣のように心を抉ります。命は便利な電化製品は自動車のように、必要な時にスイッチを入れ、用が済んだらスイッチを切るというわけにはいきません。命の始まりも、命の終わりも、わたしたちには制御できません。わたしたちは神さまから命を与えられ、いや預けられ、その命をいかようにか生き、そしてその命を神さまにお返しし、死んでいくのです。
母は最後に、病床で洗礼を受け、神の家族に迎え入れられ、神の子として、その命を造り主なる神にお返ししました。母が造り主なる神に、贖い主なるみ子に、助け主なる聖霊に確かな信仰を抱いて旅立っていったかといえば、多分そうではありません。歳をとって自分の最後を意識するようになり、「最後はあなたの好きなように送ってちょうだい」、「うん、わかったよ」と、いつとも知れぬ先の約束を穏やかに交わしていました。そんな思いに至ったのは、わたしが立派な宗教者になったからではありません。聖職になると言ったとき、両親は猛烈に反対しました。わたしの司祭としての四半世紀の生活を通して、母が出会った人たちの信仰を“感じ取る”ようになったからだと確信しています。「道を伝える」ことにおいて、聖職であるかないかは関係ありません。

造り主にかたどられ 命を受けた者は
限りある時を通して 主の栄えをあらわす
(聖歌297)
母は自らの霊、その行方をわたしに託してくれました。「あなたの信じた道をいきなさい。信じ通しなさい。」母から子への、言葉にならない最後の諭しを心に刻んで限りある時を生きていきます。
皆さまのお祈りに心からの感謝を込めて。

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