静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ12月号巻頭言

あなたの言葉はわたしの足のともし火
わたしの道の光
司祭 エドワード 宇津山武志

聖職の道を歩み始めて約四半世紀、この間に社会も教会も大きく変化しました。司祭に按手されたときには「ああ、定年まで40年もあるんだな…」と、長いなという印象で受け止めていたのですが、その待ち遠しい定年まであと12年、登山で言えば七合目まで来てしまいました。
この四半世紀の変化の中で、自分もまた変化してきました。ここに至り(この歳になって)、改めて思うこと、心の真ん中に座っているのは、「あなたの言葉はわたしの足のともし火 わたしの道の光」という詩編の言葉です(119:105、祈祷書版)。神のみ言葉こそが、わたしの足のともし火であり、行く道の光である。わたしの足をつまずきから守り、行くべき道を示してくださるのです。言い換えれば、わたしが帰るべき場所、人生の旅路の力はみ言葉=聖書にあるということ。何を当たり前のことをと笑われるかもしれませんが、み言葉に聞き従っているようで、実はみ言葉を自分の思いに従わせているようなことは、自分を顧みてもしばしば起こっているように思います。
わたしたちは聖書を通して、“イエス”という、今から約2000年前にユダヤパレスチナ地方で生きた人の人生と言葉に触れます。それが文字化されるときに、当然記した人のフィルターがかかります。それを2000年を経た遠い日本の地で読むときにまた、読み手の解釈が加わります。読み手は話し手の言葉に、意識無意識の別なく、自分の思いを読み込み、結果色々な色と飾りが施され、話し手の思いとはかけ離れたものになっていってしまうのです。主イエスご自身が、そのことを経験なさいました。自分たちの思いと違うと気づいたとき、群衆の熱狂は敵意と殺意に容易に変わったのです。
聖職に按手され、黒いクラージーシャツを着てなんとなく喜んでいたのを感じ取っておられたのでしょう。先輩の司祭がこう話しかけられました。「聖職がなんでこんな黒い服を着るか分かる?」。答えに窮していると、「黒は着ている人の色を全部消してしまうんだよ」とニヤリ。“お前が伝えるべきはキリストの福音であって、お前じゃないんだよ”と、言葉の奥にそんなアドバイスを聞き取りました。これは聖職だけに求められる“在りよう”ではありません。すべてのキリスト信徒がそう生きていけるように、聖職は象徴的にそのことを示すのです。
ガリラヤの小さな村ナザレで、まだ少女だったマリアは天使ガブリエルの受胎告知に接し、「お言葉通りこの身になりますように」と、神のご意志を受諾し、神の命を宿し、この世にあらしめました。
わたしたちもマリアの業、み言葉を受け入れ、神の命をその身に宿し、いたわり育て、神の命、一隅を照らすまことの光としてこの世に送り届けるようにと召されているのです。
しもべは聞きます、主よお話しください。
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