静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ11月号巻頭言

限りある時を通して
司祭 エドワード 宇津山武志

わたくしごとですが、先日母を天に見送りました。9月の初め、ちょっと普通とは違う腹痛に自分で救急を受診しそのまま入院。それからは検査に次ぐ検査、10月の初めに手術を受け、回復に努めていましたが、中旬に急激に悪くなってしまいました。本人はもう少し前から不調を覚えてはいたのでしょうが、わたくしたち家族にとってはわずか1ヶ月半の闘病、あっという間の別れでした。「もう一度良くなって、みんなにおいしいご馳走を作ってあげたいの」、最後の日、痛みに顔を歪めながら絞り出すように言った言葉です。母の最後の願いでしたが叶いませんでした。
自宅で母の介護を受けて生活していた父は、母の入院のため自宅での生活を続けることができず、やはり入院となりました。毎日「おかあさんはどうだ?変わりないか?」と電話がありましたが、「大丈夫だよ」とだけ答え続けていましたが、最後は両方の病院の許可を得て、母の病床に付き添いました。自分を看取ってもらうと信じていた元気な母に先立たれ、途方に暮れた父は「おれも早くあっちに行きたい」と繰り返します。
「もう少しだけでいいから生きたい」という願いも、「すぐにあちらに行きたい」という願いもかないませんでした。父や母が悪い人だったからその願いがかなわなかったわけではありません。信仰が足りなかったからでもありませんし、そばにいたわたしの祈りが欠けていたからでもありません。「命は神さまのもの」と説いてきた自分の言葉が鋭い剣のように心を抉ります。命は便利な電化製品は自動車のように、必要な時にスイッチを入れ、用が済んだらスイッチを切るというわけにはいきません。命の始まりも、命の終わりも、わたしたちには制御できません。わたしたちは神さまから命を与えられ、いや預けられ、その命をいかようにか生き、そしてその命を神さまにお返しし、死んでいくのです。
母は最後に、病床で洗礼を受け、神の家族に迎え入れられ、神の子として、その命を造り主なる神にお返ししました。母が造り主なる神に、贖い主なるみ子に、助け主なる聖霊に確かな信仰を抱いて旅立っていったかといえば、多分そうではありません。歳をとって自分の最後を意識するようになり、「最後はあなたの好きなように送ってちょうだい」、「うん、わかったよ」と、いつとも知れぬ先の約束を穏やかに交わしていました。そんな思いに至ったのは、わたしが立派な宗教者になったからではありません。聖職になると言ったとき、両親は猛烈に反対しました。わたしの司祭としての四半世紀の生活を通して、母が出会った人たちの信仰を“感じ取る”ようになったからだと確信しています。「道を伝える」ことにおいて、聖職であるかないかは関係ありません。

造り主にかたどられ 命を受けた者は
限りある時を通して 主の栄えをあらわす
(聖歌297)
母は自らの霊、その行方をわたしに託してくれました。「あなたの信じた道をいきなさい。信じ通しなさい。」母から子への、言葉にならない最後の諭しを心に刻んで限りある時を生きていきます。
皆さまのお祈りに心からの感謝を込めて。

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