静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ巻頭言

あなたがたに平和があるように
司祭 エドワード 宇津山 武志

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへイエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(ヨハネによる福音書20:19)
あの木曜日の恐ろしい出来事の後、弟子たちの心は恐れ、悲しみ、後悔、悔しさ、諦めなどが入り混じり、痛く、暗く、疲れ果てていたことでしょう。主と慕い仰いだ方の非業の死から三日目の朝、「主の復活」の知らせをマグダラのマリアから聞きました。しかしその知らせそのものが、彼らを力づけたわけではありませんでした。それが到底信じ難いことであったのはもちろんのこと、彼らもまた、大罪人の仲間として捕らえられ殺されてしまうのではという恐怖に囚われていたからです。
幸いにもわたしたちは「復活」という既成事実(教会の歴史の中で整えられた信仰)からこの物語を読んでいますので、彼らの恐怖心や痛恨の極みのような感情を共有するのは至難の業です。「十字架上の痛ましい最期」は「栄えある復活・死への勝利」という結末が常にパッケージとして理解されるからです。ちょっと言い過ぎでは?とお叱りを受けるかもしれませんが、結末を知った推理小説のようになってしまうのです。事実、教会の最初期の歴史の中で、「救い主の非業の死」という難解な出来事は視界から消え、「死への勝利」ばかりがもてはやされるということを経験しています。だからこそ聖パウロは、そういう風潮を厳しくいさめたのでした。
昨年のイースター、わたしたちは言いようのない恐れと不安の中で迎えました。得体の知れない疫病がわたしたちの命を脅かしていました。感染症の専門家の「こうしたら防げる」という言葉に従いながらも、とても安心という気持ちには至りませんでした。心がついていかないのです。こうした経験を、あまりにきれいに聖書に当てはめるのははばかられますが、「疫病(ウイルス)を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」、そう振り返ることができるように思うのです。もちろん“第四波”の門口に立ち、昨年のような恐れと不安から解放されているわけではありません。更なる注意も必要でしょう。ただ、そこにも信仰的な視点を見出していきたいと思います。イエスさまのメッセージは単純なものでした。「あなた方に平和があるように」。「平安」とも訳されます。誰かと争わない平和とは違います。「ちょっと落ち着きなさい」とも「安心しなさい」とも違う。主をわが内に迎え、そのみ言葉、その招きに気づき、開き、委ねるときに生まれる平和・平安です。わたしたちは危機に直面するとどんどんと閉じていきます。外からは光も言葉も入ってきません。イエスさまが中にいてくださるのも暗くて見えないかも知れませんね。「何をやってるんだい、真っ暗じゃないか。こんなに暗く閉ざしていたら何も見えやしないよ」と、わたしの心のうちにいてくださるイエスさまはきっと戸を開け放ってくださるでしょう。

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