静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ 巻頭言(2021年11月号)

「いつくしみ深き」
「いつくしみ深き…」といえば、「友なるイエスは」と続く、有名な聖歌482番を思い浮かべる方が多いでしょう。「星の界(ほしのよ)」の題で文部省唱歌にも取り入れられたとても美しい旋律の曲です。ですが、今日ご一緒に味わいたいと思うのはもう一つの「いつくしみ深き…」。「主の手にひかれて」と続く聖歌520番です。
いつくしみ深き 主の手にひかれて この世の旅路を 歩むぞうれしき (おりかえし)いつくしみ深き 主の友となりてみ手に導かれ  よろこびて歩まん
深き闇路にも 荒き海路にも 主は共にまして 心は安けし (おりかえし)・・・
世の旅終わりて 死の波せまるも 恐れなく進まん み恵みによりて (おりかえし)・・・
「いつくしみ深き主の手に引かれて歩むこの世の旅路」を、わたしはどれだけはっきりとしたヴィジョンを持って過ごしているだろうかと考えてみました。わたしは五十代半ばになりましたが、日々の生活の中で誰かの手に引かれなければ進めないという経験をするのは稀です。階段だって手摺りに頼らずトトトンとまだまだ軽快に上り下りすることだってできます。だからあまり実感が湧きません。では「引く」方はどうでしょう。わが子がまだ赤ちゃんだったころ、ハイハイから立ち上がりついに一歩二歩。大喜びとともに、転んで怪我をしないように手を繋いで支えました。もう少し大きくなってお散歩ができるようになると、側溝に落ちたり車道に出て車に轢かれてはいけませんからやっぱりしっかりと手を繋ぎました。しばらくすると、それが迷子にならないようにと変わり、やがて手を繋ぐことがなくなりました。恋人や夫婦もそんなものかもしれませんね。一緒にいること、おたがいの愛情を実感して歩く。ただ、やがてそういうことも少なくなっていくということが多いのではないでしょうか。こうしてわたしたちは手を繋ぐこととは縁遠くなっていきます。
病気や何かで激しい不安や実際の痛み苦しみに襲われたとき、一人でその不安を負うのに困難を覚えたとき、恐ろしいほどの孤独感に苛まれたとき、実際に誰かの手を握ることによってそれらが和らいでいくという経験もします。健康でも怪我をしたときには、そしてやがて歳を取り脚力の衰えによって、わたしたちに差し出される手はわたしたちを支えてくれることを実感するのです。
人生の旅路を導く主のみ手はわたしたちに差し出されています。深い悩みの底なし沼からわたしたちを引き上げてくださる主のみ手はわたしたちに差し出されています。その手を想像してみてください。どんな手ですか?わたしには、み傷の跡のある優しい手のひらが見えます。わたしたちはその手に自分の手を差し出し返さなければなりません。そうしてしっかりと包み握ってくださる手を、わたしたちもまたしっかりと握るのです。力の抜けた手は引き上げようとしたときにスルリと抜け落ちてしまうから。また、主は強引にわたしたちの手首をぎゅっと掴んで有無を言わせず引っ張っていくお方ではありません。ゆっくりとゆっくりと、手を繋ぎ、支え、わたしたちの一歩を待ち、天のみ国へと一緒に歩んでくださるのです。

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