静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

主日のみ言葉 聖霊降臨後第23主日(特定26)

聖霊降臨後第23主日(特定26)
※礼拝の公開が再開されましたが、種々の理由で教会の礼拝に集うことが困難な方のために、当面主日のメッセージを掲載します。
特祷
全能の神よ、あなたはひとりのみ子を与えてわたしたちの罪のいけにえとし、また清い生涯の模範とされました。どうか深く感謝してその計り知れない恵みを受け、常に力を尽くしてみ跡を踏むことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
旧約聖書 申命記 6:1〜9
使 徒 書 ヘブライ人への手紙 7:22〜28
福 音 書 マルコによる福音書 12:28〜34
お手許にに聖書・聖書日課がなくても、インターネットに接続できる環境から「ユーバージョン」(bible.com)などで読むことが可能です。
今日のみことばから
本日の旧約日課申命記は、旧約聖書冒頭に置かれた「モーセ五書」のひとつに数えられるもので、ユダヤ教では「律法の書(トーラー)」として、とても大切にされています。中でこの申命記は、「約束の地―乳と蜜の流れる土地―」へと向かうイスラエルの民に神がモーセを通して語られたこと、それが語り継がれ、文字に残され、「申命記」という形に整えられていったものです。わたしたちのよく知る「十戒」もこの申命記に収められています。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これは、ヘブライ語で「シェマー・イスラエル」という言葉で始まるもので、例えば、幼稚園の子どもたちが「主の祈り」を毎日繰り返し唱えているうちに諳んじてしまうように、ユダヤ人は今でも、子どものころから繰り返し聞かされます。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」というモーセの言葉を、本当に文字通り実践しているのです。
神はこの命令、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これを忠実に守ることによって、「あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える」と約束しておられるわけですが、今日の朗読箇所のすぐ後ろにこのような記述があります。「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。」この短い言葉の中に、わたしたちが目にするもの、手にするもの、口にするものを通して、その背後にあるものに目と心が向かわなくなってしまうという性質・傾向を再確認させられます。自らの智恵と力とに帰すると思われる華々しい業績が、その背後にあるものへの視線を遮ってしまう。「その背後にあるもの」と申しましたが、それは自らの智恵と力とによらぬもの、神の存在、神のご配慮、神の智恵と力、そして愛という言葉で表現できるものであるということは、今この文脈で改めて申し上げるまでもないことでしょう。
神のご命令は「あなたの神、主を愛しなさい」でした。これは、わたしたちの周りにあふれる、神への視線を遮るものの向こうにあられる神の智恵と力の行使、わたしたちへのすべての働きかけが「神の愛」を発露にしているということを表わしています。わたしたちは今、この神の愛をイエス・キリストを通して知ることができますし、また知るようにと促されています。
今日の福音書で、イエスさまは「あらゆる掟のうちで、どれが第一か」と問う律法学者に、この「神を愛せよ」との掟に加えて、「隣人を自分のように愛せよ」との掟を加えて、これをひとつのものとしてお示しになりました。神への愛と隣り人への愛はコインの裏表なのだということです。さらにここには自分も愛するようにとも命じられています。神への愛、自分への愛、人への愛。三本の柱。写真をブレないようにしっかりと撮ろうとするとき、わたしたちは“三脚”を使います。二脚でも一脚でも立てないのです。この三つを頂点でしっかり結び合わさるのが、神の愛の究極的な表れであるイエスさまの生、その生の象徴ともいえる愛です。神の愛の対象であるわたしたちに対して、イエスさまは徹底的にご自分を投げ出され、与えつくされ、仕えとおされました。そのイエスさまの愛、イエスさまの生き方の頂点に、命さえも投げ出される十字架のご受難があります。わたしたちが神を愛し、隣り人を愛することができるとすれば、それはこの愛を体験するからこそです。三本の足はイエスさまによってつながっているのです。どれが欠けても立ちません。「愛すると何か」ということをイエスさまを通して知り(頭で)、イエスさまを通して体験するのです(心で)。
わたしたちはイエスさまとともに過す時間、「神を愛し、自分を愛し、隣り人を愛する」という生き方の発露となるこの時間、いや、これなしに「神を愛し、自分を愛し、隣り人を愛する」というイエスさまのご命令を果たすことのできない時間を与えられています。「主よ、わたしはあなたがどれだけわたしを愛してくださっているのか知りたいのです」。この時間を心静かに大切に、み声に耳を澄ましてまいりたいと思います。
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